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  映像研究

中断と中断のあいだ

 
・中断の中断。少し空いた時間にメモをする。言葉を記す。気軽に言葉を記すことが意外なほど難しいと感じる。書き記しておくことは無数にあるのだけれども、どうしてもそのような気持ちにならないことはなぜなのか。記録しない。写真を撮ることをやめてしまった。10年メモを書くことも止まってしまった。あるいは本を読むことも少し途切れてしまっている。そんな時の中で過ごしている。季節は秋。すっかり涼しくなったけれども今日は長い雨が過ぎ去って晴れている。空気が透き通っている。9月11日。そして。


・数日前にふと思い立って下北沢のB&Bへ行く。開店当時はどこが良いのかあまりわからなかったけれども、最近は良い本屋だなと思う。ここでベンヤミンのパサージュ論4巻を見つけたから贔屓しているということもあるのだけれども、それはさておきチェックしてなかった専門書だとか知らない雑誌がふと目に留まったりするのだから、やっぱり棚の置き方が上手いのだと思う。手にしたのは『家族』という雑誌と『老いと幼なの言うことには』という本で、偶然にも「家族がどのように暮らしていくか」ということについて書かれている本だったから、今の自分はそのようなことに興味があるのだと思う。本屋に行って(少し時間をかけて)本を手に取ることから、今の自分を知るようなことがある。


・「家族がどのように暮らしていくか」に興味があります、と言ったならば「それは『生活保守』というものですね」と批判されるのではないか?というような、あるのかないのかわからない批判に対して身をこわばらせながら、あらかじめ「〜〜っていうことはわかった上であえて〜〜のように言っているのです私は」という注釈をつけなければどうにも落ち着かない、さらにそのことで言葉を扱うことや、テキストをやり取りすることにすっかり疲れてしまったのは、例えばどういうことなのだろうかと考えている。いつからかメールが届くことを楽しみだと思わないどころか、スマートフォンが震えたり、コンピュータからメールを受信した音が響くことを恐ろしいと思うようになる。そういう感覚が人の何かを変化させるのだろう。おそらくは。


・毎号ひとつの家族の一年をドキュメントするという、新しく創刊された『家族』という雑誌(雑誌という感じはあまりなくて写真集とテキストが一冊になったような本)が良いなと思ったのは、表紙を開いた冒頭の「創刊文」の文章が「幸せになりたい。」という一行で始まっていることで、そうだよな、そういうふうに書きたい/言いたいよな、と感じ入りつつ、同時に、でもどうしてそういうひと言を読むこと/聞くことで、今こんなに切ない気持ちになるのだろうか、と考えた。たぶんそういうふうに素直に「幸せになりたい。」と言葉にすることは難しい。そしてそれは「自分は戦争に行かず幸せに暮らしたい」と表現することに対して「それは自分勝手だ」という反論(論なのか)が出てきても、怒りを覚えつつ、どこかで「そういうこと言う人いそうだな」と思ってしまうようなこととも、無関係ではない。あるいは。


・ここまで書いて一度中断。