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  映像研究

デーモン

 
・勤め先は昨日から新学期で大学(自分が学生である方の)も今日から新学期。大学院の授業に出て講義を聞き必要な書類を提出しつつ図書館で本を借りたり返したりする。その後業務へ。極めて平穏な日々だ。いったいこの平穏な日々がいつまで続くのか、続かないのか。平穏なまま緩やかに速度を上げていくような初夏をイメージする春。桜は散らないし玄関の山椒は静かに芽吹く。植物は以前の住宅に地面があったことを思い起こさせる。その鉢植えの前を通って毎日出かけている。出かけない日は家で集中して本を読みたい。


・色々なところで色々な人と会っていると時々思うことは「その闘争が本当に必要なのか」ということで、しかしその闘争が必要なのかどうか、外側から人が何かを言うことも難しい。「抵抗」と「権力」とについて引き続き/あるいはその語が指し示す意味を変容させながら考えていきたいと思うけれども、どう考えても不必要な闘争というものもある。そしてその多くは「欲望」と「言語」または「発話」に関わっているのではないか。ある過剰さが結果的に闘争になってしまっている状況を目にすることがある。


ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』を読みながら、山口裕之という人の『ベンヤミンアレゴリー的思考』という本をようやく読み始めることができて、しかしそこで出会う「デーモン」という語に新鮮な響きを感じる。覚書。

(略)ここでのデーモン概念は単にクラウスにおけるデーモン的特質としてのみ現れるわけではないということも、この概念の位置づけを複雑なものにしている。というのも、デーモン・クラウス自身の特質によって輪郭を与えられたデーモン概念は、以下に述べるように、例えば「ジャーナリズム」や「時代」といったクラウスの外部の事象にも関連づけられているのだが、その際デーモン・クラウスとデーモン的な事象はともにデーモンの圏内にあるものとして、つねに同じ陣営に属するものと単純に見なされるわけではないからだ。クラウスという人間のデーモン的特質について語るというかたちをとりながらも、デーモン概念が他の事象にまで敷衍されるということ自体は、クラウス論がひとつの思考モデルであるという前提からすれば、自然なことでもある。こういった重層性は、当然ながら「デーモン」だけでなく、「全人間」や「非人間」においても当てはまる。しかしこれから見ていくように、この三段階的な展開の二番目にあたる「デーモン」概念は、まさにそれが中間段階という位置づけをとるがゆえに、とりわけ錯綜した様相を呈することになる。


・「デーモン」あるいは「デーモンの二義性」を具体的な何かとしてイメージしようとした時に思い浮かぶのはキリンジのことで(いまやキリンジといえば「前期」とか「二人だった頃の」という注釈が必要になるのか)、1stや『3』の中の曲にある風景の現代ぽくなさはどこか19世紀後半から20世紀の都市のイメージと通じる。『かどわかされて』はデパートの曲だけれどもむしろパサージュ的な空間がイメージされる。一方で『エイリアンズ』は1990年代の東京郊外の、まさにホンマタカシ佐内正史が写していた光景を立ち上がらせる。すべては全く個人的な想像として。