&

  映像研究

0711の日記

 
・7月11日。台風が来て、東京は大きな影響がなかったけれども、台風が去って、晴れて暑い。日々の雑務に必要以上に追われながら、辛うじて本を読んでいる。本とはつねに「辛うじて」読むものだし、本を読むということは、生活の中で日々の雑務に追われながらも辛うじて「ある領域」のようなものを守ろうとする、少し象徴的な事でもあるのだと思う。起きてしばらくインターネットをするのではなく本を手に取ること。電車に乗ってipodではなく本を取り出すこと。夜寝る前に少しだけ傍らの本のページを捲ること。それらはいつも少しだけ儀式である。そしてこのようにテキストをエディットすることも、それに伴ったささやかな儀式であるかもしれない。大学の図書館で本を読み、テキストをエディットする。何かから「免れた時間」があり、その時間が「ある領域」をつくる。そのように本を読み、本とともに移動している。あるいは本が移動している。本の乗り物のような人間。


・実家の父親の本棚を整理する必要があるのかどうなのか。母親はそれをしばらくは置いておきたいようだ。確かに突然に本棚からすべての本を引っ張りだすことは考えただけでも切ない。かといってそのまま時が止まったようにそのままにしておくのも、しっくりこないような気もする。だから自分は今までと同じように、時々その部屋に入って、気になるような本を取り出して、自分の家へ持ち帰り、自分の本棚に並べるだろう。それは自分が実家に住んでいたときからずっとそうしていた、儀式でも何でもなく、ただの必要に応じた行為だ。そういう行為をしたり、そういう行為について考えていると、あらためて「本棚」というものの面白さを思う。「人の部屋に行って本棚を見ることが好きだ」と誰もが言うだろう。自分も言う。だけれどもそれは少し(相当に)怖いことでもある。とんでもない本がとんでもない順番で並んでいる本棚を見てその持ち主にそのことを尋ねることができるか。「この本、どういうつもりで買ったの?」「この本の並べ方って意味あるの?」そういう質問をしたりしなかったりしながら、人は本棚について学ぶ。


・四畳半の部屋に入って、正面に小さなデスクを見て、右手の本棚には美術関係と哲学の本が、左の本棚には教育とか労働組合とか戦後民主主義とかの文庫やら新書やらが並ぶ。その両サイドに微妙にまたがるようにハーバーマスだとかの本もある。それらの本棚から「ブルデュー」とか「ベンヤミン」とか「エンデ」とか「資本論早わかり」だとかの本を抜き取って持ち帰るかもしれない。それらは買うほど欲しくはないけれども、しかし自分の本棚にあってもいいかなと思えるような本だ。得したのかどうかもわからない。自分の部屋は確実に狭くなる。それらはいつか自分が自分の貨幣で購入した本と区別がつかなくなるのだろうか、どうなのか。古本屋に売ってしまえばそれはまた貨幣になる。ブルデューならばそれを「文化資本」と呼ぶのか。あるいは普通に「形見分け」と呼んでもよいのか。


・そういう決してマイルドではないかもしれない「文化」なるものをナチュラルに吸い込んだ結果としての今の自分がいるのかもしれないが、そのことについては考えずに本を読む。大学の図書館で借りたのは高橋悠治という人の『水牛楽団のできるまで』という本で、twitterの過去ログによれば、自分は八王子市民であるときだけで、その同じ本を三度借りていた。amazonではとても高価なのだし、わざわざ買わなくてもいいかなと思いつつ、どうしても時々読み返したくなる。今から30年以上前に書かれた日記を読み返す。そこには80年代の社会運動の断片が記されている。この間観た『三里塚 第二砦の人々』は1970年の出来事を記録した映像/映画だったけれども、それから10年後の三里塚の様子も少しだけ知ることができる。一般に「政治の季節が終わった」などと言われる70年代も過ぎて、80年代のはじめとはどのような時代だったのか。時代は歴史によって物語られることしかできない。YMO。テレビゲーム。原宿。自分も辛うじて人間だったけれども記憶はない。たとえば、19世紀の美術…だとか、20世紀初頭の政治情勢…だとかの本を読んでいると、すっかり70年代なんて「こっち側」だとか思ってしまい兼ねないけれども、考えてみれば自分の記憶はない。どの意識による「こっち」だと思ったのか。自分の記憶もそれはそれで重要なのだと思う。少し集中してテキストをエディットするとすぐに時間が経ってしまうから、そしてこれは日記なのだから、また別の時間に、別の場所で、別のことを同じように書く、または同じことを別のことのように書く。