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  映像研究

2014年のパサージュ論について

 
・観たつもりで観ていない映画があるように、読んだつもりで読んでいない本がある。読んだことにしている。読書感想文も書けるかもしれない。しかし読んでいなかった。ヴァルター・ベンヤミンについての本を読んでいると、当然のことながら『パサージュ論』について書かれた箇所に出会うから、ああそうかパサージュ…と思って書店で探してみる。そして岩波現代文庫から出ている『パサージュ論全5巻』は、どうやら4巻だけが品切れであるらしいことがわかる。特に4巻が読みたかった。しかも比較的手に入れやすいハードカバーで出ているものとは微妙に内容が違うらしい。岩波現代文庫の『パサージュ論第4巻』はアマゾンにて3,672円(2014年9月25日最終アクセス)となっていて、そんなものを簡単にポチ、だかカチ、だかして購入するわけにもいかない。ゆえに図書館で借りてくることになる。


・ぱらぱらとめくり、最初から読み通さなければいけないような本でもないのかもしれない、と思って気になったところを読んでみる。何よりもその目次が面白い。目次でわかったような気になってしまう(読書感想文も書けるかもしれない)。項目が並んでいる状態は何であれ面白い。項目が言葉として並んでいるそのことから何かを考えられるように思う。その目次に各項目が並んだ様子から何かを考えられるかもしれないと思ったことを覚えておくために、これらの項目を記してみる。

『パサージュ論』全巻構成(岩波現代文庫
 
・パサージュ論 第1巻
概要
パリー19世紀の首都[ドイツ語草稿]
パリー19世紀の首都[フランス語草稿]
A:パサージュ、流行品店、流行品店店員
B:モード
C:太古のパリ、カタコンベ、取り壊し、パリの没落
D:倦怠、永遠回帰
E:オースマン式都市改造、バリケードの闘い
F:鉄筋建築
G:博覧会、広告、グランヴィル
 
・パサージュ論 第2巻
H:蒐集家
I:室内、痕跡
J:ボードレール
 
・パサージュ論 第3巻
K:夢の街と夢の家、未来の家、人間的ニヒリズムユング
L:夢の家、博物館、噴水のあるホール
M:遊歩者
N:認識論に関して、進歩の理論
O:売春、賭博
P:パリの街路
Q:パノラマ
R:鏡
S:絵画、ユーゲントシュティー
T:さまざまな照明
 
・パサージュ論 第4巻
U:サン=シモン、鉄道
V:陰謀、同業職人組合
W:フーリエ
X:マルクス
Y:写真
Z:人形、からくり
a:社会運動
 
・パサージュ論 第5巻
b:ドーミエ
d:文学史ユゴー
g:株式市場、経済史
i:複製技術、リトグラフ
k:コミューン
l:セーヌ河、最古のパリ
m:無為
p:人間学唯物論、宗派の歴史
r:理工科学校、土星の輪あるいは鉄骨建築


山本理顕という人の『個人と国家の〈間〉を設計せよ』という文章を読んでいて、そこではハンナ・アーレントの「労働」「仕事」「活動」という区分がたびたび引き合いに出される。「『労働力』という概念の発見はマルクスの功績である。そしてそれがその後の労働の意味を決定的にしたというのはアレントの指摘である」(第二章)ということを前提としながら、労働を理論の基礎をきずいたマルクスに対して、しかしそれを批判的に更新しようとしたアレントの思考をベースに論じていく。大きな主張としては「建築という仕事がすっかり『労働』として捉えられつつあるなかで、いかに『仕事』としての建築というものを考えられるか」ということがあると思うけれども、そのなかでマルクスとはまた別様に「労働」について定義したフーリエという人が挙げられている。そしてフーリエについての記述はベンヤミン『パサージュ論』から引用されている。そういうつながりもあったのだった。


・ではアーレントベンヤミンの関係はどうなっているのか。もちろん生前の交流などの歴史的な関係は知ることはできるとしても、いま2014年にアーレントベンヤミンを隣において交互に読むような読み直し方をしたときに、そこで何か面白いことはあるのかどうか。

活動と言論の特定の内容は、その一般的な意味とともに、芸術作品の中でさまざまな形で物化されている。芸術作品は、偉業や達成を賞賛し、ある異常な出来事を変形し、圧縮して、その出来事の完全な意味を伝える。しかし、行為者と言論者をあらわにするという、活動と言論に特殊な暴露的特質は、活動と言論の生きた流れと解きがたく結びついているから、この生きた流れは、一種の反復である模倣(ミメーシス)によってのみ、表現され、「物化され」る。アリストテレスによれば、模倣はすべての芸術に一般的に見られるが、実際にそれがふさわしいのは、ただドラマだけである。この「ドラマ」という言葉は、ギリシア語の動詞dran「活動する」からきているが、これこそ、劇の演技(アクティング)が実際は活動の(アクティング)の模倣であることを示している。しかし、模倣の要素はただ俳優(アクター)の演技に見られるだけではない。アリストテレスが正しく主張しているように、芝居を作り、書くことのうちにも模倣の要素がある。とはいうものの、ドラマが完全に生命を与えられるのは、やはり、それが劇場で演じられるときである。物語の筋を再演する俳優と語り手だけが、物語そのものの意味、いやむしろ、物語の中に姿を現す「主人公」の意味を、完全に伝達することができるからである。これは、ギリシア悲劇の場合でいえば、物語の方向は、物語の普遍的意味とともに、合唱隊(コロス)によって明らかにされるということである。合唱隊は模倣せず、その解説は純粋に詩的である。他方、物語における行為者の触知できないアイデンティティは、一般化されないものであり、物化できないものであるから、ただその活動を模倣して伝達することができるだけである。これは演劇がすぐれて政治的な芸術である理由でもある。人間生活の政治的分野を芸術に移すことのできるのは、ただ演劇だけだからである。同じ意味で、演劇の主体は、他人と様々な関係を取り結ぶ人間だけであり、このような芸術はただ演劇だけである。
ハンナ・アーレント『人間の条件』(p.303-304、ちくま文芸文庫)