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  映像研究

避暑について

 
・暑さを避けることができるのか。家は暑い。しかし家の中でも1階は涼しい。だけれども家の主要な機能は2階にある。ゆえに家を出て駅前のコーヒー店にて本を読んだりコンピュータを操作したりしている。夏になり、夏はハードだ。これから一ヶ月間、無事で済む気が全くしない。例えば舞台に出ている人は公演の期間の前にはこんな心境なのかといつも思う。台詞を覚えられていない。あるいはお客が入っていないという不安があるのか。批評家が観に来るとか来ないとかいう不安もあるのか。しかし自分の場合はそれは演劇でも公演でもなく「授業」なのだから、淡々とプリントを作ったりするだろう。スケジュールをシミュレーションするだろう。不測の事態が起こらないようにしたいが、不測は不測だから仕方がない。可能な限りの準備をする。


・夏は読書だというけれども全然本を読むことができない。本を読むことは時々難しい。昨日の夜中、ようやく涼しくなってから、本ではないなりにちょうど2年前に大学院の授業で毎週配られていたテキストのプリントを前期の分すべて読み返してみて、あらためてその時にはわかっていなかったようなことが、今ならばもう少し理解できるように思えた。それは映像という機械の視覚と人間の知覚がどのように繋がり、重なり、切り離されているかというような学についてのテキストで、例えば2年前ではなく今の自分ならば、そのテキストを読むことで触発されるようなことが多くある。写真や映画における「フィルム」による記録の不思議を考えることが多い。懐かしいからということだけではない、それらのイメージが物理的現象のいくつかの関係の中から(奇跡的に)浮かび上がってくる「像」であることの凄まじさを考えてしまう。


・例えば2年前の自分はそのようなテキストを読んでいた。そしてテキストを書いていた。高尾駅ドトールや、八王子のファミレス的カフェや、その他いくつかの場所で、その場所の騒がしさをBGMにして書いていたかもしれない。家では書けないのか。家は暑く、寒い。家は暑いか寒いかのどちらかなのか。朝5時に起きてジョギングをして午前中にテキストを書いて、午後はプールなど行ってゆっくりと過ごし、夜は音楽を聴きながらブランデーグラスを傾けている人がいるのか。多くの人はそんなことはなく、昼はわあわあ言う。ばたばたと移動する。公共交通機関に揺られる。メールが来て返信をする。ソーシャルメディアからお知らせがくる。そのような中で、どのように本を読み、どのようにテキストを書くか。気温の暑さだけではない何かを、処理速度を極限まで上げた結果クラッシュしそうなハードディスクを抱えて、どこへ行けば避けることができのか。


・図書館のイメージ。言葉を話すこともはばかられる。どうしても必要な事務的なことをこそこそと話す。本を手に取る音。静かに新聞のページを捲る音。時々寝息。床は大抵カーペットだから足音もしない。静かな場所のイメージ。


・あるいは最終の新幹線に乗っていた。発車して10分でお弁当を食べてしまったから、やることがなくてビールを飲みながら本を読む。時々大きな荷物を抱えた人が、家族が、隣を通り過ぎるだけ。エアコンが効きすぎていて寒くなったらカーディガンを羽織る。乗り物のイメージ。


・夏になるといつでも少しだけ何か重要なそうな事柄を考えることができるような気がするけれども、そのためには上手に切り離されていなければいけない。体温と、気温と、座布団と、ハードディスクと、時間の流れが、同じ温度になって、その境界すらわからなくなってしまうから、その境界をたしかめることによって、ようやく考えることを始めることができるのか。そもそも何を考えていたのか。夏の夏らしさも思い出す。