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  映像研究

地獄のような日々ではない

・202007130925。ぐったりした眠りから覚めて洗濯。朝食。デスクで作業の前に準備運動と思いながら書いてみる。空気のような音楽をと思う時この数年は高木正勝のMarginaliaの曲を流してみることが多い。いつかウェブの記事で見た高木正勝という人が暮らしている京都の山の場所のイメージが漂っている。高木正勝という人のことをもちろん直接は知らないし初期の活動における映像作品は同じ年の自分としては受け入れがたいものだったが(ジェラシー)、それから20年ほどの時間が流れた現在の自分にとっては、それは「友人からの手紙」のように感じられる。この時間、この瞬間に、この音楽が生み出されるような、場所が在る、ということが自分にとっては、確かに希望のように感じられる。大袈裟な言い方だけれども、本当にそう思う。

 

・夏になると山のことを考える。土曜日の夜に山部の友人たちとオンライン・ミーティングで話したことも理由だろうか。かつての山を歩いた感じを思い出す。山道を歩くときの土や木との近さや尾根に抜けたときの開けと風景の見え方。それを感じる自分の側が多少なりとも変化したとしても、その場所やその物やその風景は、そのようであり続けているだろうという確信が、自分のある思考の一端を支えている。いつかそのことを言葉あるいはイメージによって表現したいと思う。

 

・風景について、あるいは「見ること」について考えることと、人間について考えること、その両方にまたがって、写真のイメージをどのように考えるべきだろうか。良い写真は何も表現しない。そう言い切ってしまいたい考えと、そう言い切ってしまうのは急ぎすぎという考えがある。しかし写真を表現としてではなく、風景や物と近しいそれ自体も物であるような対象として捉えることはできる。あるいは表現というようなことを構想する人間と近しいそれ自体も存在であるような対象として捉えることもできる。

 

・どのような場所でも大抵木や土と建築はひとつの生活環境を構成している。一方で都市には人工物が多いと言うことはできる。のみならず都市には商品(これから誰かに購入され所有される)が多いと言うこともできる。自分の職場から歩いて15分でルミネもビックカメラブックファーストもある。数えきれない物がある。無限に近いと思われる商品が整列する。そのことに驚いて思わず表現の方法自体も構想したのは『パサージュ論』のベンヤミンだろうか。キリンジの『かどわかされて』もそのイメージを歌にしている。2020年にはもちろんその「陳列」へのノスタルジーも大きいのだろう。「陳列」あるいは「展示」ということ自体の価値も大きい。『複製技術時代の芸術作品』で書かれた(描かれた)「礼拝価値」と「展示価値」の違いは実感として「よくわからない」。溢れた物、それからイメージ、それぞれの「展示価値」と「礼拝価値」を考え直してみることにも意味があるかもしれない。

 

・「礼拝価値」と「展示価値」の違いが実感としてわからないのは、そもそも「礼拝価値」が何なのか、よくわからないということでもある。「祈ること」とは何なのか。そう考えて検索して『〈祈ること〉と〈みること〉 キリスト教の聖像をめぐる文化人類学と美術史の対話』という本も購入してみた。見ることと祈ることの間に写真はどのように存在していると言えるのか。そのような考えを清野賀子という人の写真を導きとして考えてみることもできるはずと思う。それを自分の仕事として書くこともできるだけ早くしたい。人にとって時間は有限であるから。中断。

 

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