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  映像研究

 
・春なのに、あるいは春だから、なのか、色々な人が、色々な場所で、嘆いている。嘆いているような言葉を聞くそして読むことが多い。あるいは多いような気がする。そして嘆いているような言葉に対する感度が高まっている状態は、自分もまたそのような「予想以上に、凄い速度で、本当に、世界は悪い方向に進んでいっている」という種類の言葉に相づちを打ちたいのか、どうなのか。そしてさしあたりその「進んでいっている」ことを、市場原理が…とか、金融が…とか、そのように指差そうとすることもどこかしっくりこないように思えるのならば、一方でテクノロジーの問題として捉えることも、それはもちろん一つの角度から設定した議論でしかない。


・「おもしろき/こともなきよを/おもしろく」ということを、これまで自分が辛うじて何かの指針として来たかもしれなかったことに対して、端的に「全然面白いことがない」あるいは更に「その『おもしろき/こともなきよを/おもしろく』という発想が駄目なんじゃないですかね」と誰かは言うかもしれない。それは世代とスタイルに固有の問題なのかどうか。本当にわからない。「箸が転がってもおもしろき年代」の人たちもいるだろう。その人たちに「箸はどうして転がっているのでしょう」と言うことも「この箸は何でできているんでしょう」と言うことも「この箸をつくっている人は時給いくらで働いているんでしょう」と言うことも、言うことはできる。


・いずれにしても「おもしろき/こともなきよを/おもしろく」ということとは違ったスタイルを、指針を、思考を、原理を、発明しなければいけないかもしれない。あるいはこれまでのスタイル/指針/思考/原理に接続(接ぎ木のように)しなければいけないかもしれない。それはいつもしていることだし、全然したことのないことだ。このようなことを考えるのも、春なのに、あるいは春だから、なのか。


・数日前に飲食した教育関係に勤務している元同僚は、その教育機関を卒業する学生に対して「砂漠に送り出しているようだと思う」と言っていた。「戦場に送り出しているならば『頑張れ』と言うこともできるけれども、砂漠に送り出していることに何を言えばいいのかわからない」というようなことを言っていた。そしてそれを聞いて自分もどこかその感じを理解できるように思った。その砂漠を想像する。砂漠。


・しかしいつも砂漠とか言われていたものだった、という切り返しは冷静かニヒルなのかあるいは罠なのか。世代やトレンドやスタイルを思いながら、それを相対化しつつも、絶対に逃れられないものとしてそれを織り込みつつ、その砂漠のありようについて考えなければいけない。「平坦な戦場で僕らが生き延びるために…」とか言うときの、その「平坦な戦場」はどこにどのようにしてあったのか。戦場で戦いに従事することや、砂漠に突然都市を造るくらいの労働をしているうちに、そこが戦場であることも、砂漠であることも忘れる。もちろん忘れるために働くのか。


・戦いのメタファーを採用することに躊躇いを持ちながらもそれを使えば、誰もが「不毛な撤退戦を続けている/しかしやめることはできない」という意識に捕われているように思う。思わずにはいられない。ほとんどの「おもしろき」ことはただ一瞬それを忘れさせるだけで、あらゆる情報は「やめることはできない、のならば戦うことに対して必要な筋力をつける」ためのものであるのならば、(消去法であっても)選ばれるべきだと思うのは「戦ったり、戦わなかったりする」ということでしかないのではないか。そしてあらゆる意味での寛容さをセットにして。