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  映像研究

11月の終わりに写真が届く

・201911301350。出かけるのか家で作業をするのかどっちつかずなままデスクの周りを片付けていると現像された写真が届く。それは2019年にGW690Ⅲで写した風景の写真の最後になるかもしれない。近所の風景を写した写真の中で数枚目に留まったものをスキャナで取り込んでみたならば、写真を見る時間がはじまってしまった。たとえばその一枚。11月中旬の多摩川。快晴の昼。川向こうの風景の中に映るブルーシートは台風の痕と見ることができるが、しかしそれは人の住居の一部であったものであるだろう。そう思って見ると写すことの倫理というようなことも考える。いったい「誰からも何も咎められることなく写しても良い場所」などあるのだろうかと問うてみる。

 

・朝家族を車で駅まで送る。帰りにJ-WAVEからハナレグミ『家族の風景』が流れたから、その曲が色々な場所でよく流れていた2004年くらいのことを思い出す。自分にとって2004年前後は不毛な砂漠のように思い出される。ハナレグミの音や言葉はその不毛な砂漠の中で、それ自体も特別輝いたイメージではないにせよ、何かしら質感のようなものを感じさせた音楽として記憶されている。そして2019年の「家族の風景」とは何か。友人のライングループが動きそれぞれの家族の様子が感じられる。12月はただでさえ回想モードに入ってしまうから、同時にその回想は「この1年」から「この10年」「この20年」へと延長される。色々な場所の色々な親密な景色を想像する。それはそうと「友達のようでいて/他人のように遠い」という歌詞は何度聴いても自分には「友達の予定で/他人のように遠い」と聴こえてしまう。ごめん、友達と予定入ったから、とかでさくっとキャンセルされる家族の関係、そういう素っ気なさと切なさを孕んだ不思議な信頼のあり方というような意味で「友達の予定で/他人のように遠い」の方が自分の実感にも近いのだけれども。

 

・あと一ヶ月でできる限りのことをする。

 

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