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  映像研究

今日も

 
・今日も中央図書館へ。小雨が降る中で車を動かしてチェックインは10時過ぎ。昨日と同じ席に座ってPCを立ち上げてインターネットを稲城市のそれに接続する。そこから業務に必要なリサーチ及び連絡で1時間半くらいが消える。しかしそれも必要なことだ。そしてそれも自分が目下考えるべきこと(考えを展開すべきこと)と広く繋がってはいる。遊び心だけ忘れないように。まったくてらいなくモチベーションとか言うこともどうなのかと思いつつ、グルーヴ。グルーヴを大切にということを思い出す。


・しかし考えていることとできていることはあまりにもかけ離れているということもまたある。一方でグルーヴ至上主義と思いながらも、他方では自分もまた「面白くできるはずの環境をやりすごすことで面白くなくしていた」のだった。それこそ日常的なモチベーション、とか、ファシリテーション、とかいうことになるとどんどんビジネスっぽくなるが。「おもしろき/こともなき世を/おもしろく」ということを手放さずにするにはどうしたら良いのか。場所、名前、ユーモア、飲食、あと何か。

マルクスは、もし労働生産の持っている商品としての性格が廃絶されるなら、労働は自発的に(情熱的労働[フーリエの言葉]として)なされるだろうという観念をいだいていた。したがって労働が自発的なものにならない理由は、マルクスに即していえば、労働の抽象的性格になるといえよう。  【X4,2】

「……古典派ブルジョワ経済学者と、最初に彼らと対立した社会主義者によって……すでに大部分先取りされていた「剰余価値」の理論と……近代賃労働者「自由な労働契約」を「労働力商品」の売買へと還元することは、商品交換の領域から……物質的生産の領域へと移行すること、すなわち商品と貨幣という形態の中にある「剰余価値」から、資本主義的経営の中で支配と抑圧の現存する社会的関係のもとにおいて現実の労働者が行う……「剰余労働」へと移行することによってはじめて現実を洞察する力を獲得する。」
コルシュ前掲書〈『カール・マルクス』手稿〉、?、41-42ページ   【X7a,2】

コルシュは剰余価値を、「「労働力商品」としての商品の物神性がまとう「特別に倒錯した」形態」として定義する。
コルシュ前掲書〈『カール・マルクス』手稿〉、?、53ページ   【X7a,2】