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  映像研究

この商品は欲しいですが、こんな商品は必要ありません

 
・ノートないしメモ。


・「この商品を買った人はこんな商品も買っています」と言われて、理想としては「この商品は欲しいですが、こんな商品は必要ありません」と答えたい。わたしが欲しいのは「この商品」なのであって、どうして「こんな商品」の情報を知らなければならないのか。わたしが何を欲しいかはわたしが考えるし、そもそもわたしの欲望に干渉しないでいただきたい、ときっぱりと言えたならば、それはさぞかしすっきりとすると思うけれども、実際には確かに「こんな商品」は「この商品」を購入したわたしにとって、興味のある商品だった。だから意識的に履歴を消す。そして「この商品」を買った人は買わないであろう「こんな商品」を買う。データベースが途方に暮れるほどに欲望を分散させる。「あらゆることに興味がある状態」とも違う、もちろん「あらゆることに興味がない状態」とも違う、ばらばらな、そしてそれが何よりも「自分が必要とする基準でつながった」関係性をつくる、そんなことは可能か。というかそんなことをする意味があるのかどうか。わからない。「履歴を消す」という言葉から思い出すのは真木悠介という人の『気流の鳴る音』だっただろうか。「履歴を消してしまうことがベストだ」。この「履歴」とその「履歴」は関係があるかもしれない。


高橋悠治という人は茂木健一郎という人との対談で「以前そのように本に書いていましたよね?」と聞かれて「本にはそう書いてあるらしいですね」と答えていたことを思い出す。これもまた履歴と関係したことかもしれない。


・「途中でやめる」というファッションブランドをやっている山下さんという人の日記の文章がすばらしかった。内容も、書いている感じも良くて、久しぶりに文章を読んではっとして、その文章がずっと自分に残っている。「使い捨て歯ブラシが14本100円で売られてたらもう何をやればいいのかわからない」というフレーズ以上に、それこそ何を言うことがあるのだろう。あるいは論文を書いてみたことで「労働」について考えることは一段落して、もうしばらくは考えないつもりでいたけれども、春になって、新しい年度が始まって、自分や周りの人たちにも、小さな大きな平凡な突然な暴力的な不条理な意味のある色々な…変化が訪れたならば、それを考えずにはいられない。労働とどのようにつき合っていくかについて。


・そしてそのことはそのまま「東京で生活すること」について、絶えず問い直すことにつながる。東京のコンディションを探ることとも通じる。この場所がどういう場所なのかということを、自意識や履歴とは別の拠り所から探ることはできるのかどうか。東京人という雑誌の特集であった「フィールドワーカーになる」には、そういう意味もあるのかどうか。それは関係がないのか。家のすぐ裏で、京王線の車窓から、府中駅の駅前に、ブルドーザーがまったく平然と、小さな大きな平凡な突然な暴力的な不条理な意味のある色々な…変化を生み出していることについて。引き続き考える。