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  映像研究

ゴールデン

 
・「画像をつけてよりあなたらしくしましょう」とTwitterに提案されるのがきょうのできごとだ。お勧めされるままにサーヴィスのディテールを更新する。デザインを変える。レイアウトを変える。それに伴ってさりげなく個人情報の開示を求められる。そういうことの小さなつまずきこそを記録しておこうと思う。小さな違和感を気に留めておくことについて。名言をコピー&ペーストするよりも、小さな違和感を忘れずにいること。


・「面白いブログを書いてください」と業務の会議で提案されるのがこんにちのじょうきょうだ。緩やかに状況は進行する。少しずつ意識は変化するだろう。そのような状況において、どうして「面白いこと」をアウトプットしなければいけないのか、という問い。どうして誰もが「面白いこと」を言うこと(書くこと)を仕事にしなくてはいけないのか、という問い。どうして気がついたら自分の仕事が「面白いこと」を言ったり書いたりすることになっていたのか、という問い。色々と問いはある。問いを傍らに置く。問いを課題とする。すぐに解決しない。


・というメモを残して眠った。そして起きた。起きたならば庭に出る。庭に出て土を耕す。去年のこのシーズンの家庭菜園を参照しながら、新しいシーズンの家庭菜園を進める。野口の種で購入してきたズッキーニが芽を出した。見事な双葉。丈夫そうな茎になるであろう部分、そして葉の様子。この双葉がどのように育つのか。それをしっかりと見つめながら、必要な手助けをすることがこの5月の課題である。


・今週の月曜日、28日の月曜日には吉祥寺の「バウス・シアター」で『ゴダール・ソシアリスム』を鑑賞した。3度目の鑑賞。観るたびに何事かを考えるような映画がある。理解しようとする。ところでそれがどうして「映画」なのか。「映像」ではいけないのか。そもそも「映画」と「映像」は実際のところどのように同じで、どのように違うのか。そのような問いを立てても意味がないのか。そういうことを考えることがこの一年の課題でもある。


・家の前の田んぼでは蛙がなきはじめた。


・「ソフト・ランディング」という言葉を聞くのは例えば「資本主義の崩壊/そしてソフト・ランディング」というような文脈だけれども、そもそもソフト・ランディングなんてことがあるのだろうか。軟着陸は端的に「墜落」でしかあり得ないのではないか。墜落すべきではなかったものが地面に接する瞬間を想像する。そして現実には誰もソフト・ランディングなんて望んでいないのではないか。生命であるのならば、飛べる限りは飛ぼうとするだろう。では「ソフト・ランディング」は誰が何のために言い出したのか。


・そういうことを考えながら久しぶりに写真を撮る。目で見ている物が全然写せていない。目で見て気がついたことが全然絞り込めていないことにがっかりしながらも、何枚か撮ってみることでまた気がつくこともある。写真を撮ることは日々のトレーニングが必要だとつくづく思う。とりわけ山に行って写真を撮るようなことは反復の中でこそ面白くなってくるのだと、その反復の外にいることで、はじめて気がつく。それでも今の自分には今の自分にしか撮れない写真がある。