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  映像研究

SHIBUTOSA

 
・全然外れてしまったところで辛うじて何事かを考えて何事かを話す生活を送っている。いまや自分は焦ることすら基本的にないが徹底的に、決定的に、どうしようもなく間に合わないという気持ちは深まる。「なぜいま(いまだに)そんなところでそんなことをしているのですか?」とさえ誰も自分に尋ねなくなるだろう。友人は時々そういう根本的な疑問を投げてくれてあらためて思い出す。それは自分が、自分が思う何かからも少し離れてしまっているかもしれないことを知らせるきっかけになる。そして修正したり修正できなかったりする。すべてが修正できるわけではない。自分はおそらく、できるときに、できることないしやりたいことを、する。開き直るつもりはないが誰もがそのようにして整備されて説明書通りに動く機械のようなものから、別の何か有機的としか言い様のない何ものかへと育っていくのだから、それは取り返しの問題ではない。取り返せるものなど何もないし遅すぎることも何もない、そのように考えるしかないし、考えるべきだと思っている。信じている。事実去年の同じ時期には同じような言葉を書いていた。昨日ふと思い立って調子の悪かったスマートフォンを機種変更すべくauショップに行き諸々とても親切な店員さんに教えてもらった結果携帯電話に交換した。いまではガラホ、と呼ばれる二つに折りたためる道具/機械は電話とメールをすることができる。あとテザリングipadに電波を飛ばすこともできる。それだけできれば十分だし、日頃スマートフォンという道具を人が持つことが不思議で面白くて仕方がないと感じていたから、5年ほど実際に持ってみたものの、自分にとっては不要だった。道具を手放すと身体の動き方も変わるだろうし時間に対する感覚や速度に対する感覚も変化するかもしれない。やや大げさに考えればそれは、現代の少なくとも先進国と呼ばれたりする国の都市と呼ばれるような場所で暮らす大半の人の身体のステータスから少し離れることになるのではないか、そう期待している。今の自分の仕事の一つは、現実の空間で声と顔を表に出すこと、と言えるかもしれない。テキストでもなく、図像でもなく、自分の声と顔を動かして、他の、たとえば目の前の、別の声と顔を揺り動かすこと。パフォーマンスということもできるしコミュニケーションということもできるが、もう少し共振、と言いたくなるような動きを作り出すことができればいいのにと考えている。それは「少しの間だけでよいので、スクリーンから顔を上げて、視線を私の方に送ってみてください」という誘惑のアプローチであるかもしれない。そして相手の声にも反応する。相手の声や顔に集中して反応することも仕事の一つだ。それは、声と声が、息と息(息・吐息)が、交差する儀式のようなものとも思える。しかし目と目を合わせることが目的ではないのだから(それはどこかでより親密な相手とより親密な方法でおのおのやってください)茶室のように、私とあなたは「何か」を見つめる。何かが美術でもいいし映像でもいいし言葉でもいい。でも、ここで、一つだけ条件を課すならば、その儀式は、この場所にいない、誰か別の人間に報告するために行なっているわけではないということです。あるいは人間ですらない何事かへ報告することが生活の必要条件になっている人は、そのこと自体を問い直してみてください。そして140文字程度で常に今の自分の状況を言語化することが当然のことになっている人はまずその事実に疑問を持ってみましょう。ここは知覚を問い直す場です。そして教室はそれ自体が共有のための場なのだから、教室にいない存在へ向けて共有する必要はないのだし、むしろそれは教室が教室である条件を失わせることになるかもしれないのです、などと言ってみて、しかしそれは既に10年以上も前に、多孔化、とか言われた状況が完全に前提になったことを確認しているに過ぎない。たとえば数日前に知ったことの一つは、ポートフォリオという語が作品集の意味から別の意味に生成変化して今では全ての人間が、ボリス・グロイスが言うところのアート・ドキュメンテーションを形成する、ポートフォリオはその重要な構成要素になったのかもしれないということだ。あらゆる人間にドキュメンテーションを課そうとする、そのシステムの力とは何か。あなたの存在を他の誰とも異なる固有のものとして讃えてあげる代わりに、あなたの存在に履歴を埋め込ませてくださいと優しく呼びかける声は何か。履歴を消せとは『気流の鳴る音』のドン・ファンの言葉だったか。しかし人はどうすれば履歴を消すことができるのだろうか。この今に生きながらにして「履歴を消す」ことの意味と価値を考えて小さく実践していくためにはいったいどうしたらよいのか、そう問いを立ててみたならば、それは既存の学問や文化のカテゴリから少なくとも一度離れてみる必要がある。あたりまえだが様々な場所には様々な人が暮らしていて、自分が全然知らない人が、自分が思いもよらないことを考えているということ。たとえばそれを聞くこと。とりあえずそれを集中して(我/履歴を忘れて)聞くことがきれば、ひとまず今日一日は生き延びることができるのではないか、というこれは楽観的にすぎるだろうか。履歴を疑い、履歴を押し付ける声を跳ね除けること。そして履歴とともに「固有性」を相対化すること。履歴によって形成された「固有性なるもの」はマーケットに要求された、つまり比較するために便利であること以上の意味はない。教育や研究ではなく「学ぶこと」の一つの目的はそうした視座を必死に獲得するためにあるのではないか。オンリーワンとかのキャッチコピー的なワードではなく、履歴や比較がまったく限定的なローカルルールでしかないということを、自分の言葉で理解すること。そのために他者の声を聞いて、感じて、そして決して比較しないこと。それができれば小さなストーリーが生じる。いくつかのストーリーが動き出して、時々重なり合えば、たぶん楽しい。人の話を集中して聞くためには履歴を消すことが必要なのだと思う。おそらく「見つめる」ことのためにも。知覚すること、とりわけ見ることを通じて、時間的/空間的な個を離れること。そのことが心身ともになんとか健康であるために最低限度の自由を実感するということに繋がれば良いのにと思う。