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  映像研究

話さない

・201907120930。労働の価値発生源の主に「話す」があるから、休日はなるべく「話さない」。と決めているわけではないが、しかし朝から家で本を読んだりノートPCを叩いたりしているともちろん話さない。あるいは「話す」代わりに「書く」。そして一日でも空いて誰かと話をするときには少し戸惑う。下界に降りていく、というようなイメージ。

 

・清野賀子の写真集『THE SIGN OF LIFE』の冒頭に今枝麻子という人が書いている文章「すべての創造の回路をショートさせる」をふと読み直してみて、前に読んだ時にはわからなかったことが少しわかったように感じた。この文章では前半で「これらの写真は、わたしたちのなにを象徴しているのか」という問いが立てられ、それに対して「アイデンティティのありよう(の新しさ)」を提示することで進んでいく。この「象徴」という言葉が自分にはしっくりこなかった。写真が何かを象徴することなどあるのだろうか?と、思っていた自分はこのテキストをよく読めていなかったのだと思う。ここで「象徴」を「丁寧に写真を読んでいくことで浮かび上がってくるテーマ」と、ある意味では普通に考えてみた。そうすると「アイデンティティ」についての説明もすっと理解できる。

 

ここでアイデンティティとは、とても具体的な、感触のあるものとしてたちあらわれる。ここに生きる人のありようは、その人が日々体感する日射しの色や風の肌触り、道のかたちや木の枝ぶり、水たまりや土の色あい、壁の材質などによって表される。そしてまた、その人が日々目にする自動車や工場の屋根や高速道路といった人工物も、やはりその人のなかに入り込んでいることがわかる。自然と人工は二項対立ではありえない。両者のあいだに無限にある混じりあい、自分のなかに自分とわかちがたく入り込んでいるこの矛盾に満ちた世界を、複雑な思いに駆られながらも自分のものとして肯定すること、そしてそこから啓蒙主義的なことは違うある種の個にたどりつくこと(略)

 

・清野賀子という人の写真と、写真という媒体のことを端的に捉えた言葉と感じた。これ以上の言葉はないとさえ思える。この「アイデンティティ」の問題は、その後別の人によって探求されたのだろうか。「スタイル」や「戦略」とは別の写真の可能性。テキストはその後「まなざし」と「言葉」の問題に進む。このテキストを読んでいると、自分の思考が(~にも関わらず、いまだ)写真の媒体固有性のところで留まっていることに気づかされる。あるいは技術的な条件。「メディアの問題」にはいつでも興味があるが、それがしらずに問題の枠組みを規定していることには、自覚的でなければならない。

 

・中断、