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  映像研究

繰りかえすもの

 
・12月7日の金曜日、夕方に少し長い地震があった。去年の3月11日のその時とまったく同じ場所にいた。揺れを感じたときには業務の最中だったのだから、驚きつつもその場に必要な対応をしようとする。冷静であろうとする。揺れがおさまると、例えば再び学期末のテストの時間がはじまるだろう。そのような環境にいる。そのような環境に自分がいたことを思い出す。揺れがあって時間の流れに亀裂が走っても、その場所の日常は続いていくのだろう。気づかないほど微かにずれながら。そのずれを心に留めて、続いていくことの恐ろしさも忘れないようにしながら、それでも目の前にある出来事に対処している。


・「津波」という言葉も「余震」という言葉も、久しぶりに聞いた。久しぶりに発音した。その発音によって思い出される感覚がある。点としての2011年3月11日と、線としてのその後の時間。線は次第に細くなってどこかの地点でほとんど見えなくなったように思う。見えなくなっていた。見ないことにしていたのかもしれない。けれどもその線は確かに引かれているのだし、そもそも「この時間」は、その線の続きとしてしかあり得ない。あり得ないのだった。大きな揺れと大きな揺れの間に時間があるようなイメージを思った。揺れない方が良い。津波もこない方が良い。けれども起こったときには、そのことをきっかけとして自分の意識のようなものを確かめるのだろう。


・悲劇は繰りかえされることで喜劇になるのか。繰りかえすことによって悲劇になったり喜劇になったりする出来事があるのか。あるのかもしれない。そういう種類の出来事があるのかもしれないし、そういう出来事の捉え方もあるのかもしれない。しかしつねに悲劇として繰りかえされる出来事もある。


・あるいは悲劇とまで言わなくとも、望ましくない繰りかえされるもの、モードのようなこともあるかもしれない。以前総理大臣だった人がまた総理大臣になるかもしれない。以前総理大臣だった人がまた総理大臣になるときには(そういう「とき」を経験してないからわからないけれども)、それを支持するような、多くの人の社会に対する気持ちのようなものがあるのかもしれない。かつてのその時(2006〜2007年くらいだったか?)と共通するような、多くの人の気持ちのようなものがあるのかもしれない。それは一体どういう「気持ち」なのだろう?


・しかしその問いは正確ではないかもしれない。そういえば「適切な仕方で問題を提起すること」と昨日読んだ文章には書いてあった。「適切な仕方で問題を提起すれば問題は自ずと解決される」と書いてあった。と同時に「解決することを最終的な審級としないこと」というようなことも書いてあったかもしれない。


・12月10日の月曜日、期日前投票へ行く。