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  映像研究

昨日と今日

・202004180958。昨日と今日がくっついていく世界で。日記を書くことによって似たような(在宅で何事かをする)日々を区別したいと思っているが、逆に日記を書くからこそすべての日が並列されるように感じるということもある。スーパーマーケットには行くが、書類を取るために役所には行くが、電車に乗らなくなって10日が経った。学区の中学に徒歩または自転車で通っていた中学以来だと思うがそのことに対しては特に感慨はない。電車に乗り、東京の中で街を移動して、何かの活動をして、生活している。そのことから離れることで、そのことを考えることができる。

 

・災害、禍い、出来事、いずれも、予想していたこと、とは全然違う事態が進展する。2011年の震災の後に考えたことが、役に立つのではないかと思ったけれども、そもそも、役に立つ、という発想は、何かを予想して構えていたことに対して、それに適った何かが起きるということだから、想定外の何かに対しては、おろおろするしかない。「今日は仕事が進まなかったな」という人に対して、気休めであろうとも「こんな状況で力が出し切れる人なんていないよ」と返答する運動。「気休め」という言葉は良い。気を休めることの重要性。

 

・全然支持しているわけではないましてや投票していない現都知事の記者会見をほぼ毎日見ているうちに、気の毒というような気持ちが湧き、寝ろ的なハッシュタグをタイムラインに流す人の心境も理解できるように思う。一方で何がどうしても共感的な感情を持つ余地のない総理大臣との違いはどこにあるのか。自分の(他人から見れば偏った)思想信条に依るのかもしれないが、何かパーソナリティが醸すものを感じ取っているのではないか。「他者に対して言葉を発すること自体に快楽のようなものを感じているかどうか」。

 

・この半月ほどで、人の顔を映像を通じて「見る」ようになった。それは政治家だけではない。友人や知人をオンライン・ミーティング・ツール/PCの画面を通じて見る。同時にそれは「見られる」ことでもある。既に進行していた事態が、ある出来事によって、決定的に、その意味が変わるとことまで、進むということがある。その最中にいる今。