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  映像研究

いまそんなことばかり考えてる(途中)

 
・そんなことばかりでもないなりに最近特に考えてるのは「何かをつづける」とか「何かがつづいている」ということで、それは自分が「何かをやりつづける」ということをもちろん含みつつも、しかしむしろもう少し大きいというか広いというか、むしろ無意識に「何かがつづいていっている」というようなことで、例えば、例えばを挙げることが難しいのだけれども、例えば人が生きているようなことだ。何かに夢中になったり何かに飽きたりしながらも、であるからこそ、別の種類の何事かはつづいていて、であるからこそ、生きている、生きつづけている、というようなことだ。しかしそんなことばかり考えてるのもどうなのかと思うので、普通に、普通は、普段は、忘れたりもしている。



・ある出来事から時間が経つこととはどういうことなのか?ある出来事から時間的に離れていくということとはどういうことなのか?いま考えてることはそんなことばかりで、それはもちろん/例えば「3月11日から」ということだ。それは今の、8月の終わりの自分にとっては「3月11日」から幾らかの時間が経っていく、経ってしまったことを感じないわけにいかない、ということだ。そしてしかし例えば定型文としての「あの時の感じを忘れないようにしたい」と言う時の「あの時」は「あの時」が「今」とは違う時だとするからこそ、そのように表現することができる定型文だとするのならば、そもそも8月の終わりの自分にとっては「3月11日」は「今」と違う時なのかどうなのか、ということから考えたい、という意味では、それほど簡単に「あの時」と指し示すこともできない。しかし確実に時間が経っていることは、はっきりとわかる。



・人はどうやって「あの時」と「今」を切り分けて捉えることができているのだろう。それをできているのか?あるいは切り分けられないなりに「また元の日常の…」と言うのか。そう言う時の「日常」とはなんだろう。そのような状態が一度でもあったのか。どうなのか。



・あらゆる「あの時の感じを忘れないようにしたい」と言うその言い方が、戦争のような事柄から、個人的な出来事まで、本当は、自分が今まで考えていたような単純な、一面的な事とは違う、色々な意味を持った言葉なのかもしれないな、ということを考えている。例えばひとつには「あの時の出来事から何かを学び続けるという意味で忘れないように心がけること」があり、例えばひとつには「忘れたくともあの出来事の先に今の生活と考えがあるのだから忘れようがないような状況」がある。多分他にもある。そんなことを考えているとふと「どうして人は全ての出来事を覚えていることが出来ないのだろう?」と思い立ってしまって、これはまるで夏の終わりの子ども電話相談室のような問だ。子どものような問を投げてみることから考える。



・もしも全ての出来事を覚えていることが出来たならば、風景は、言葉は、人との関係は「出来事」で溢れかえってしまうのかもしれない。これまで生きた全ての人の霊が見えてしまうように。そしてそうなってしまっては大変だから(理由はわからないなりに/とりあえず大変そうだから)「出来事」を適度に地ならしする行為として「物(を)語(る)」が存在しているのか。どうなのか。というそれは完全に当てずっぽうだ。そして誰もが「『あの時』と『今』を切り分けられなんかしないよ」と思ってしまったならば大変だから(理由はわからないなりに/とりあえず大変そうだから)「過去形」という言葉の形式が生まれたのか。どうなのか。というこれも完全に当てずっぽうだ。しかし、どうしたことか、そんなことばかり考えている。



・人の細胞は数ヶ月(適当)だかでそっくり入れ替わるとか言うけれども、そうやって入れ替わっても記憶は残るのだということを思う。手のやけどの跡も残る。怪我をすれば指が曲がらなくなったりする。それも考えてみれば不思議なことだ。そしてそのような時に何がつづいていて、何がつづいていないのだろう。そんなことも考えている。



・色々な人が色々なところで「それで、どうして総理大臣が変わるんだけっけ?」と言っていて(つぶやいたりしていて)、よくわからない。それは「流れ」かもしれない。あるいは「なにかの力」かもしれない。一体なにの力だろう。しかしいずれにしてもそれをはっきりした言葉で言い表すことにはそれほど意味があるようにも思えないけれども、しかし一方その「どうして」を考え続けることには多分きっと意味がある。「どうして」を前にして、驚き続けながら(「想定内」とか言わずに)、不思議に思い続けながら、「不思議」を言葉にし続けながら、考え続けながら、できることをできるやり方でやり続けることには多分きっと意味があると思う。



・そんなことばかり考えてる時にちょうどイルコモンズという人がブログで「社会的な活動と『バーンアウト』」についての記事を書いていて、自分はその「バーンアウト」という言葉/概念は知っていたけれども、そして現状の自分はそれほどバーンアウトしているとも思っていないけれども、いまこの時にその記事を読んだならば、それは何かのマニュアルとしてではなくて、自分にとっては「あの時」に対する「今」、のようなことについて考える上でも、とても意味があるテキストとして読むことができた。「今」ということを考えた時に、一緒にくっついてくる「重み」のようなものに対する姿勢として、しっくりくるところがあったということ。



・そんなことばかりでは全然ないなりに考えているのは「原子力発電所」のことや「TPP」のことだけれども、一方先週だかに某カレー店でカウンターに座った友人と話していたのは、例えば「身体を管理する権力」のようなことで、それは「権力」と名指すことが適当なのかさえわからないような、例えば「情報として管理するためのコンピュータ・ネットワーク」や「生物をそのものとして管理する遺伝子工学」のことで、そしてそれはもちろんきっと同じ動きの二つの面(両面、かどうかはわからないけれども/ふたつだけなのかわからないから)なのだよなぁ、というようなことだけれども、いつも本当に/本当は、誰もが口にするのは「それ一体、誰が、何のためにやっているのだっけ?」ということで、それはいつもいつでも大きな不思議だ。不思議は勝手に大きくなって、いつもいつでも自分を(あるいは他の誰かを)呆れさせる。



・色々なことに呆れて、呆れた結果として、もうどうしたって駄目だなぁ、と思うような時にも、それでも「何かがつづいている」というような感覚があったり、そういう「何かがつづいている」ことに肯定的な意味を見いだす言葉が「ある場」に投げられたりすることもあるけれども、その投げられた言葉に対して、可能なかぎり慎重になろうという気持ちも同時にある。そういう気持ちが特に最近ある。生成する、その変化の良さを感じ続けながらも、しかし同時にそこにどのような判断を、言うならば倫理を、介入することができるか。できるか、という言い方はベストではなくて、介入することになるのか、どうかのか、というようなことを考えている。そして多分その考えは以前にも同じような意味で繰り返された考えだ。そんなことばかり考えている。



・生成することを、ただ「面白い」とだけ捉えて、そこに倫理を介入することを忘れてしまったときに(生成の面白さが純粋になったときに)、人はきっと「でも何万年後かには人間がいなくなっても地球は地球でありつづけるよ/だって自然は人間が思っているよりももっとずっとタフだからね」というような事を、まるできっぱりとした様子で口にするのかもしれない。しかしそれは「経済の『見えざる手』」を「自然の『見えざる手』」に置き換えただけだ。そのような意味での「自然を『信じる』気持ち」とは違う気持ちで、違う気持ちから、別の考えを生みだすことはできないか。そんなことばかり考えている。