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  映像研究

正気

・202004091003。朝食をとり久しぶりに『まいにちフランス語』を聞きつつ洗濯をして家族を車で近くの駅まで送って今。正気を保つことが難しいがこのような状況で何が正気かも定かではない。昨日半日仕事をしたから今日は基本的には切羽詰まった業務の作業はない。ゆえに今日の課題は研究の再開(の準備)と今後の作戦を考えて準備できることを準備すること。情報を追うことだけに時間を費やしてはいけないと思う。断線と読書。時々オンラインによるコミュニケーション。そういうバランスを創り出す必要がある。

 

・一方で自分もそうだが色々な人の仕事や生活のことが気になる。「緊急事態宣言」が出されてもなお業務を停止せよと指示されることがないのは多くの人が指摘しているように、国が国民の命を救うための策を取らないことに拠る。驚くほどに悪質な統治だと考えざるを得ない。数日前に職場でよく話をする人が「ヨーロッパと日本では国家と国民の関係が異なる」というようなことを話していて、その時はあまりピンときていなかったが、ヨーロッパ各国の政治家が国民に向けたメッセージを読んでいると、そして日本の総理大臣のそれと比較すると、何か根本的なところで、異なる価値観があると考えるよりほかない。

 

・この出来事の最中に身を置いていると「自己責任」と「競争」とが都合よく内面化された社会だと感じることがある。業務で電車に乗らなければならないことも自分の選択の結果だと考えてしまう。そしてそれは自分もまたそうなのだ。その思考を疑うことができるか?あるいはまた友人で組織に属さずいわゆるフリーランスで仕事をしながら生活をしている人に「元々リモートワークだから」というような話を聞くと、それに対する僅かの後ろめたさと妬ましさを持っていることに気づく。その気持ちが増幅されたならば「そのように自由な生活をしているのならば何かあったときに補償がなくても当然なのではないか」という気持ちが生まれるのだろう。組織に属する人間と属さない人間の間の生活についての溝は深い。

 

・自分の場合は、3月中旬以降4/2までは「毎日必ず電車に乗って職場に行かなくてはいけない状況」であったが、4/3から4/6の「電車に乗って職場に行かなければいけない日もあるが行かなくてもいい日もある状況」を経て、4/7からは「工夫すれば電車に乗って職場に行かなくてもいい状況」に落ち着いた。工夫を重ねることによって、自分の場合はこの状況を最大で(今のところ)5/6まで継続することができる。そして継続してみるつもりである。そうして家で数日を過ごしてみたならば、今もなお「(基本的に)毎日必ず電車に乗って職場に行かなくてはいけない状況」であるところの家族のことを心配するようになり、また同じように家にいながらにして仕事をしている友人のことを考えるようになる。あるいは店を営業している友人のことを考える。通っている美容院、カイロプラクティック写真屋、喫茶店、のことを思う。時々行く飲食店のことを考える。何かできるだろうか。

 

・一ヶ月前ならば2011年3月以降の出来事と重ねて考える言説を目にすることがあり自分もまたそのように考えることがあった。しかし今は、出来事の最中であることの客観性の持てなさを差し引いても、やはり別の出来事であるということを考える。もちろん極端にマクロに考えれば「命」と「金」の間に政治が揺れるという図式を描くこともできるだろう。しかし決定的に異なることは「外部がないと考える意識」だろうか。東日本大震災の直後には山口へ移動して、広島、岡山、京都と友人や親戚を訪ねながら関東の様子を窺い、最終的に3月末に戻った。空間的な距離が思考に役立ったという感触がある。

 

・今そのような意味での距離(ソーシャルディスタンスの問題ではなく移動の問題)を想定することは難しい。契約した車の購入を待ちわびているのは「Stay Home」の「Home」の延長としてのドライブに可能性を感じていることに拠る。誰にも会わずに車で移動をして家に帰るという活動が許されるのならば。部屋の拡張と移動の体感。思考を継続するためには刺激が必要なのではないかと考えている。中断。