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  映像研究

繰りかえすもの、恐ろしいもの、イメージ

 
・「戦うこと」や「争うこと」からなるべく遠いイメージを手がかりにして、政治家や政党を選び、投票をするだろう。「傷つけること」や「奪うこと」からなるべく遠いイメージを手がかりにして、政治家や政党を選び、投票をするだろう。


・この数日色々なネットワークで色々な言葉を読んでいて、どういうわけか、今や誰もが(と言わないまでも多くの人が)とても恐ろしい気持ちで生きているのかもしれない、と思った。例えば「戦争は良くない」から「憲法を変える可能性があるような政党や政治家を選ぶべきではない」と発言する人に対して、その発言をたしなめる(あるいは反論する)別の人は、他の国が攻めてくることを本当に恐ろしいと思っているのかもしれない、ということをはじめて想像した。


・そして今のこの現実は、色々な事情があって、色々な歴史もあって、色々な偶然もあって、色々なバランスで、今のこの現実があるのだとは思うのだけれども、だから、大抵のことはある意味で「仕方がない」のかもしれないけれども、いやしかし、それでもどうしても「戦争」だけは…。その言葉のイメージが…、もう、全然だめだと思う。


・そういえば、世に言う(言うのか?)「戦争」のメタファー的なものも、ところで、自分は、全然だめだと思うので、普通のときは普通に流すけど/冗談が通じなくてごめんなさい、例えば「受験戦争」とかいう言葉がもう恐ろしいし、いわんや「特攻隊のような気持ちで…」とか「鉄砲玉みたいな…」とか、そういう表現が、全然だめだと思う。話がそれた。


・「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。」という言葉を、誰が、いつ、どういった文脈で発して、それが、どのようにして、今に伝わっているのかについてはさておき、それが「悲劇」か「喜劇」かとかもさておき、しかし「歴史は繰り返す」かもしれない。繰り返す歴史はもちろん、色々に違った条件から、違った今として繰り返されるのだと思うのだけれども、しかしそれはやはり繰り返すのかもしれない。…というように時々、ふっと思うことは「自分が生きている間に、日本という国が、戦争をすること」の可能性について。


・「戦争が起こること」を想像する。「自分が生きている間に、日本という国が、戦争をすること」を想像する。戦争は地球のどこかでつねに起こっているのかもしれないけれども、もう少し具体的に、たとえば、友だちの・友だちの…、誰かが戦地に行くことを想像してみる。「誰も行くわけないじゃないですか」と言っていたような普通の人が、たとえば「まさか自分がスーツ着る仕事すると思ってなかったよ」と学生の頃に言っていたような普通の人が、戦争へ行く…ことは、今のところ想像ができない。


・「戦争をするか戦争をしないかは話し合いで決めましょう」と言うだろう。それほど露骨ではなく「憲法を改正して自衛隊を軍として海外で活動できるようにするかしないかは民主主義で決めましょう」と言うのだろう。でもそれって「人殺しをするかしないかは話し合いで決めましょう」と言うことと何が違うの?っていうのが普通に思うことで、一方にはその普通に思うことを思い続けること。そしてそこで根拠として示される「コスト」や「利益(国益?)」を疑うこと。


・一方には恐ろしさをきっかけに、つねに警戒心を持ちながら、もう一方では別のレベルでの「安心」をつねに作り出すこと/見つけること/学ぶこと/まもり続けること。考えようと、書こうとしたこととは、全然違うことになった。そして書いているあいだ、ミサイルが飛ぶ。それをインフォメーションする。それは恐ろしいもののイメージとされるのだろうか?中断。