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  映像研究

家じゅうの布という布を洗いたい月曜日

 
・アラジンストーブやファンヒーターを動かすのは11月に入ってからにしようと決めた。朝晩は少し寒いけれどもまだ余裕がある。フリースの衣料品を着ている。押し入れからちょっとおしゃれなネルシャツがほら出てきたよ、と思ったらそれは10年くらい見ていなかったパジャマ(a.k.a.寝るシャツ)だった。押し入れにはブラック・ホールがある。休日。月曜日。上記の暖房器具を試運転してみた。題名の通りに「家じゅうの布という布を洗いたい」と思う。ニットやコーデュロイの衣料品に水と風を通す。旅に出る前には装備を確認する。あるいはパーティーのみんなに声をかける。パーティーとしての衣料品。



・ずっと靴箱で眠っていたクラークスのデザート・トレックを修理に出した。ゴムのソールが割れて、中敷もぼろぼろで「もう新しい靴買っちゃおうかな(完全に口実)」と思ったりもしたけれども、やっぱり修理に持っていった。「一万円くらいはかかると思います」と言われたけれども、それはそういうものなのだ。物を購入したからには、もしもその物が壊れたのならば、それを直し、使い続ける義務があると思う。なぜそう思うかと言えば、そう思った方が面白いし気分が良いからだ。トレックは恐らく11年生くらい。去年ソールを交換したレッド・ウィングのアイリッシュ・セッターは15年生くらい。そしてこちらも数日前にベルトの交換に出した(もうないかもと言われた)BRAUNのAW10という腕時計は18年生くらいなのだった。



・物を捨てずに、あるいは簡単に買い替えずに使い続けることは、何かに対する抵抗であるかもしれない。あるいは何かに対する復讐ですらあるかもしれない。本棚にはずっと『優雅な生活が最高の復讐である』という題名の本が置かれている。それを置いたのは自分だ。その言葉を少し変えて『物を使い続けることは最高の復讐である』と言ってみようか。言うのは自由だ。しかし何に?何に対する抵抗で、何に対する復讐なのか?想像力を展開させる。物を見つめ、物を手放さず、物の可能性を引き出し続けること、そしてそのためにこそ、物を見つけ続けること、を、やめない。そういう方法が/方法も、あるかもしれない。



東京都現代美術館で先週末から始まった展覧会『風が吹けば桶屋が儲かる』について友人と話をしていて、その展覧会自体は、それは単に楽しみだし観に行こうかというだけのことなのだけれども、そのこととは別に(別でもない)その題名『風が吹けば桶屋が儲かる』という言葉が(あえてそのような表現によって)指し示すような気分、とか、考え方、とか、生き方?のようなことを話していたかもしれない。そして、そういえば自分もその言葉、そして「桶屋」について、または「桶」について、あるいは「風」について、考えていたかもしれない。そして、もう10年近く前に当時の同僚かつ後輩女子に「モットーは何ですか?」と聞かれて「『せっかくだから』を最大限に活用することです」と答えたことも、これと似ているかもしれない。というかそのようなやり取りから、個人的にゼロ年代を何とかやり過ごすための独自の(そして誰もが考えている)「桶屋理論」あるいは「ウルトラ・桶屋理論」が生まれたのだった。今、そのことも思い出す。



・あるいはまた別のこととして(別でもない)「贈り物の力」「プレゼントの暴力」「祝祭的な暴力/暴力的な祝祭」についても考えていたことを思い出す。例えば人が一人で暮らすことを始めたならば、その部屋にあるものは原理的に二通りしかない。「自分が選んだ物」か「贈り物」かの二つである。だからこそ、その後者をどれだけ受け入れることができるか、ということは「自分の想定を超えた事柄をいかに受け入れるか」ということと関係があるとかないとか。そのような考えから、贈られる人が全く想像してなかったであろう物こそを贈る。それこそがコミュニケーションの原型なのではないかという、これは実験。そしてその実験はしかも、結構頻繁に出来る。それは「自分で選ぶこと」への抵抗であった。あるいは「想定内である(そういう言葉がトレンディーだった時代がかつてこの国にはあった/みたい)」ということに対する「たたかい」だった。「想定」に抗うことについて。



・そして、それは、しかし、今や、うっすらと「普通のこと」になった、かもしれない、という話を、最近、色々な人と、色々なところでしている、かもしれない。(つづく)