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  映像研究

たとえば

 
・(つづき)秋も深まり11月。6日の火曜日は11月らしい冷たい雨のなか東京都現代美術館へ。『MOTアニュアル2012 Making Situations, Editing Landscapes 風が吹けば桶屋が儲かる』へ。色々な人が色々な道順に沿って色々な興味を持っている展覧会をようやく観に行くことができた。そして色々なことを考える。例えば数年前ならばこのような展覧会を鑑賞した後で思いつくままに作品を例に挙げつつ感想というか考えたことなどをこういったブログのようなものに記すことができたけれども、今ならばそのような気持ちにならないのは、例えば出展している作家の人とともすれば間接的な繋がりがあったりし兼ねないからだとか、しかし「間接的な繋がり」が全くないということはそもそもないだろうから、それは「ソーシャルな・コミュニケーション」にまつわる或る作法のようなこととして、ぼさっとした感想や、その作品をきっかけにした観想(?)を記しづらいような雰囲気があるとかないとか、それはあくまでも自分の今の心境であるとか。


・いま研究しようとしている事柄(の中の主要な部分)は、1960年代以降の芸術の展開を「行為の芸術」あるいは「行為の記録」として辿りなおすということなのだけれども、その流れの中にいくつかのポイントを設けたときに、その一つには90年代(以降)のリレーショナル・アート、ニコラ・ブリオー『関係性の美学』があるのであって、では、それは、今、どのように考えるべきか?例えば「2012年」はどのような地点になるのか?そのような問いには意味があるか?ないかもしれない。(問いを探す。入口を探す。)もちろんすべての時間の流れは、すべての事柄の延長にあって、「劇的に・根本的に・新しいこと」はない。そしてちなみにそれは社会の進展も同じようなのだった。しかしスタイルは微妙に変わる。何がスタイリッシュとされるかどうかも微妙に変わる。そしてメディア・テクノロジーは圧倒的に変わる。代わる。なかった機械が今はあることについて、はまた別の(同じ)事柄だった。


・日曜日はユーロスペースにて田中功起という人の『A Piano Played by Five Pianists at Once (First Attempt)』を観に行ってきた。この映像(映画?)もまた『風が吹けば桶屋が儲かる』展の関連作品というか出展作品だったのだけれども、その映像について、そしてそのアフター・トークでの佐々木敦という人との会話について、ずっと考えていたりもする。考えていたりもしつつ月曜日の朝は9時過ぎに鷹の台にいた。後輩かつ元同僚に面白い授業の情報を教えてもらって母校の美術史の授業を聴きにいく。タイミングよくそこでは1969年スイスでの展覧会「態度が形式になるとき/作品ー観念ー過程ー状況ー情報」がテーマになっていて、その展覧会(とその周辺)は自分にとってのもう一つのポイントなのだったから、そのことを再確認できて良かった。あるいは美術の展開についての講義があのように面白いものだということを再確認できたことも良かった。授業が終わった後で後輩かつ元同僚とコーヒーを飲みつつ色々話す。卒業制作を制作中らしい別の同僚にも偶然出会う。その日はランチにカレーを食べにいった(備忘録)。


・『風が吹けば桶屋が儲かる』展へ向かう電車のなかでは1973年の7月号の美術手帖に載っているルーシー・リパード『美術の非物質化』を読み直していた。


・『風が吹けば桶屋が儲かる』展から新宿方面へ戻る電車のなかではパオロ・ヴィルノという人の『マルチチュードの文法―現代的な生活形式を分析するために』を読み直していた。


・芸術と労働がともに物質を作ることから別の形式に移行することについて考えていた。あるいは9月10月の読書会で読んでいた橋本努という人の『ポスト・フォーディズムの問題圏ー対抗的創造性の理念ー』というテキストも、そういえば自分はそのように読んでいた。2012年の現在地点を指し示すために、芸術の進展を、労働の展開を、なぞってみようとする。色々な方向から色々な線をなぞって、辿ってみたいけれども、差し当たって、その二つの線をなぞってみようと思った。その二つの線は並走しているようにも思えるし(大きな歴史の時間軸の部分とも思えるし)、あるいは別々の場所を出発点にして、今のこの場所に集合しているようにも思える(イメージとして)。


・その地点を、状況を、色々に呼ぶことができる。呼びかけて、輪郭を一瞬なぞることはできる。「ポスト・フォーディズム」と言う。「認知資本主義」と言う。「非物質化/脱物質化」ということも関係がある。「バイオ・ポリティクス(生政治)」も並べてみようかと思う。「産業の空洞化」とかいうニュースで聞きそうな言葉も連れてきてみた。80年代の政治経済〜現代思想のような本や雑誌をぱらぱらめくっていると「高度資本主義」という言葉に出会ったりする。あるいは00年代以降の色々なところでは「末期資本主義」的な言葉が作られる。「壊れかけの・資本主義」のような言葉とも出会う。「資本主義の安楽死」とか「資本主義のソフト・ランディング」とか色々なバリエーションが創作される。そういえばコンピュータ(や)ネットワークはツールだ。ツールでしかない。あるいは一方にこれらは「先進国(と呼ばれる地方)」に特有の状況なのか?という問もある。「『脱物質化』って言ったって、普通に朝ご飯食べてきたよ。朝ご飯は物質だよ。」と言う人を想定してみて、今日はその人と一緒に生活をしてみようかとも思う。新生活。生活のバリエーション。


・コンピュータ(の)ネットワークが良いのは、こうして/こうした文章を記している間にも、別の場所の、別の出来事が、しかし「それはほんとうは別の出来事なのか?」という問を抱え込んだような状態で、投げかけられたり、拾い上げることが可能な状態で置かれていたりすることで、そのような写真や、テキストや何かを、見て、読んだりすることから、また自分が置かれている状況、自分が点として存在している面、平面、について少しだけ意識したり、ぼやっと考えたりすることができるということだと思う。友達の記す日記や新聞を読む。蝶の羽ばたきとして記録される言葉とイメージ。行為の記録。


・例えばどこかで蝶は(当然のこととして)羽ばたくのだけれども、そしてその羽ばたきが何か別の事柄の一部であるかもしれないということはそれ自体考えてみるべきことだと思うけれども、では「蝶はなぜ、何のために羽ばたいているのか?」という問もある。蜜をとり、仲間と出会う。蜜について考えることもできるし、仲間とのコミュニケーションについて考えることもできる。結果としての花の受粉について考えることもできる。結果としての羽ばたきの効果について考えることもできる。想像することもできる。しかし、そして、蝶は蜜に向かって移動するために、羽ばたいているというそのことを、ただ見ることもできる(つづく)。