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  映像研究

継続と停滞または待機

・201903181128。日記あるいは備忘録。自宅で読むことからはじめようとしているがなかなか考える/書く/読む開始地点が見つからない。こうしたはじまりの手前を彷徨うあるいは佇む時間を勿体ないと思ってしまう一方で労働の問題が解決されない事情もある。ひとまず検索を止めて。

 

・何かを自粛するとは本来どういうことだろう。それは「喪に服す」ことの別名だろうか。ソフトなタイプの。あるいは象徴的な意味での。喪に服し続けながら生きている人がいる。あるいはすべての人は喪に服し続けながら生きているのだろうか。パートナーが死んでから毎日犬の散歩と小説を読むことで生活をしている人を知っている。それは穏やかな生活なのだろうか。自分にとってのソフトな「喪に服す」経験もあるのかもしれない。たとえば2008年くらいに渋谷の宮下公園がナイキパーク?になる時期にそれに反対する人たちの活動を知った自分は、その後の人生でナイキの物をあらたに購入するのをやめた。2000年前後に狂ったように買ったスニーカーは大体2009年くらいの時期に壊れた。今後も自分はナイキの物を買わないだろう。それは「オルターグローバリゼーションの運動」とかではない。そもそも「一人が勝手にやること」は「運動」とは見做されないだろう。自分も考えていない。それは過去の自分との約束かもしれない。

 

・あるいは2011年の3月11日以降、色々なことが大きく変わった。自分も変わった。それからしばらくして総柄の衣料品に抵抗を感じるようになった。祭りでもないのに楽しい振りを演出しているように感じる衣服は疲れる。またロゴマークの入ったデザインを着用することに抵抗を感じるようにもなった。なぜだろうか。自分ではそれを「すべての言葉はメッセージであり態度表明である」ことを考え続けることが苦しくなったからではないかと分析している。分析が適当であるか自信がない。元々考えてきた事柄がさらに推し進められた結果でもあるだろう。自分自身をプレゼンテーションする身振りを不自然だと思う。ともあれそれから8年が過ぎた。しかしそうした表面的な気分は表面の問題であるが、一過性のことでなかった。今後自分は「総柄」や「ロゴマーク」を死ぬまで身に付けたいと思わないとしたら、それは何なのだろう。

 

・話すこともすっかり変わってしまった。「言葉(の選択)」も「速度」も「リズム」も「アクセント」もまったく変わってしまった。数日前に「10年か、10年だな」と思って2009年のことを思い出したが、記憶の自分があまりにも能天気で無神経かつ不勉強そして不遜だったことに驚いてほとんど恐怖を感じてしまった。一方でその能天気や無神経を眩しいと思うこともある。これは普通の加齢のプロセスなのだろう。少し遅いけれども。ところでそれは「自粛」とどのような関係があるのか。人はある時期以降「喪に服す」ことを知り、すべての人はソフトに喪に服す。必ずしも実態のない罪に対して自粛をするような感覚も遠くないように思う。

 

・強制的な自粛。気分としての自粛。上からくる自粛と下から来る自粛。窮屈さ、息苦しさと表現される心理や状態は「貧しさ」に由来する部分もある。そのことをどうすれば俯瞰できるか。ただ考えてばかりいる。移ろう意識を追いかけるだけ。検索は止めて。