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  映像研究

言葉にできない、沢山の

 
・言葉にできないことは沢山ある、というこれは、それ自体まとめることができないような様々な事柄について。「言葉にするのが恥ずかしい」「言葉にするのが憚られる」「言葉にする時間がない(時間がかかる)」「言葉にして誰かに知らせたくない」「あまりにも馬鹿馬鹿しいような気がしている」「本来視覚は言葉には置き換えることができない」etc。挙げていくならばきりがなく、分類しようにもその根拠となるようなパースペクティヴは設定しづらい。「言葉にできない繋がり」とでも言うべき様々な事象がある。それで。


・今年はフェスティヴァル・トーキョー(F/T)にもなるべく積極的に足を運んでみよう、ということで色々観に行きたかったのだけれども、観に行きたかったもののすべては観ることができなかった。『言葉』という作品と『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』という作品を観た。舞台作品が作られる過程にいま興味があるかもしれない。「ある場所へ行きその場所を取材することから何か作品のようなものを作ること」に興味があるかもしれない。それは舞台作品に限ったことではないのかもしれないけれども、舞台作品/演劇に特有の「再現性」ということに興味があるのだろうか。映像の再現性(撮影したものを・再び・見る)との違いについて考えるのかもしれない。


・「地に足がついている」というのは主に良い意味で「落ちついている」とか「身の丈に合っている」とかいう事柄を指し示していると思うけれども、では「地に足がついていない」こととはどういうことなのか。たとえば「引っ越しをすることが決まっているけれども、まだその準備はしていない」という状態はどうだろう。あるいは「可能ならば東京以外の場所に住みたいと思ってリサーチをしているけれども、まだ具体的には決まっていない」という状態はどうだろう。人はたえず移動のなかにいるのか。定住して、そのことを死ぬまで続けることとして考えて、そして生活をしていくこととはどういうことだろう。


・「見えなかったことを見えるようにすること」を芸術の定義とするという言葉を聞いて、それは良いと思う。「見えるようにする」ことには沢山の・無数の、方法があるのだろう。それを誰もが使えるようなツールのようなものとして、誰もが通りがかるような場所に、そっと置いておくような行為も良い。交換価値を生む、というようなこととは一切関係がなく、ただ「役に立てば」良いと思う。誰かにとって役に立つかもしれない、何かを、インストールしておく。


・関係があまりない話。同じ話を何度もしている話。持っている物を直したり、洗ったり、繕ったり、しているだけですっかりお金がなくなることをどう考えたら良いのだろうか。労働をしたならばお金をもらう。家賃を払い、公共的な料金を払い、食べ物を買って、調味料のような物を買う。あるいは石けんのような物やトイレットペーパーのような物も買う。そして電球がきれれば電球を、消しゴムがすり減れば消しゴムも買うのだろう。そして靴のソールを張り替える為の修理に出す。腕時計のベルトがちぎれたならばそれも修理に出す。ニットに穴があいていれば糸を買ってきてそれを繕う。家では洗濯できない毛布をクリーニングに出した。


・新しい衣料品を購入することはどういうことだろう。それはこの上なく贅沢なことのように思える。しかしあるいは衣料品は贅沢品であると同時に消耗品でもあるのだった。もしも着られない程の激しい損傷をしたら別の新しい物を買う、ということだったならばそれはとてもシンプルだったかもしれないけれども、大抵はそういうことはない。着られない程の激しい損傷をする前に、色々な理由からどこかへ行ってしまう。どこへも行かない衣料品は、たとえば都築響一という人がいつか撮影していた『BORO つぎ、はぎ、いかす。青森のぼろ布文化』のようなことになるのだろうか。ある物がその限界ぎりぎりまで/あるいは/その限界を超えて、使用されるという状況に憧れてしまうのはどうしたら良いのだろう。成人したら同じ服をずっと着続けるような文化に惹かれてしまうのは、どういうことなのだろう。


・言葉にできないような気がしていたのはニュースのような何かの情報を得たからなのだった。都知事選が行なわれるし、総選挙も行なわれるのだろう。それは面白いことのように知らされ、そしてそれを面白いことと感じることだってできるのだろう。そういうすべての事柄がどうしようもなく大切なことではないと思う一方で、大切なことを考え続けるために/あるいは自分にとっての領域をまもるために、選択をするだろう。積極的に消去法で考えるだろう。驚く程に最後は勘で決めるだろう。