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  映像研究

秋は山

 
・そういう山へ向かうような気持ちが自分の新しい生活を方向づける。今までもそうだったし、この先しばらくもきっとそうなのだろうということを最近考えた。「山へ向かうような気持ち」はなかなかしぶとくて、例えば「男性が(街で)スパッツを履くブーム」は一瞬で通り過ぎていったけれども、そんなこととは関係なく、もっと、ずっと、遠くまで、その可能性を伸ばしていくだろう。


・山へ向かうような気持ちは、山の裾野を巡るような気持ちでもある。山へ向かうような気持ちの周りには、物を見る方法や、食べることについての基準や、住む場所についてのアイディアや、時に政治的でもあるような強い気持ちや、倫理のようなものや、おしゃれさや、とてつもなく長い時間について想像することのできるような知性や、詩や、歌や、数えることは意味がないような種類の、様々な驚きがあるだろう。それを「日常」と捉えるか。あるいは「日常に非ざるもの」と捉えるか。いずれにしても、それは尽きることがない。そうとうに尽きない。そうとうに尽きない、湧き続ける何か。その何かは驚きの源泉であるけれども、その「驚き」は、何かが特別であるとか、何かが特別であることを誇ろうとか、そういうこととは一切関係がないという意味において、更に驚きなのだった。多分。


・「木皿泉」という人が書いた言葉を定期的に聞きたくなる。たまたま『すいか』のDVDが貸してた友達から戻ってきたタイミングで、しかし今は『Q10』を観たくなってしまった。『すうねるところ』という舞台も本当は観たかった。それからNHKで放送されていたらしい『しあわせのカタチ〜脚本家・木皿泉 創作の“世界”〜』も見たかった。『LET IT PON!〜それでええんよ〜』というラジオドラマ(?)も聴きたかった。どういうことが話されているのだろう。そこでは多分「普通である」ということが、どういうことなのかが話されているのだろう。日常についての物語を、日常について、それが何なのかよくわからなくなってしまったような今の時に、見たい。聴きたい。あるいは観たい。


・「可能性」ということを思考の中心に据えるようなアイディアを膨らませたい。あるいは「可能性を殺さない」ということを、倫理のようなものに研ぎすませていくような(幾つもの)道筋を考えたい。ドゥルーズという人ならば「可能性」ではなく「潜在性」と言うのか。どうなのか。見えるものの中に、見るべきものがある。