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  映像研究

普通の言葉で話をする。

 
・普通の言葉で話をする。普通の言葉で話をすることは暗号のようなものを作り上げることとそれを解読すること。暗号を作り続けること。暗号の法則の変化だけを追うこと。あるいはもっと簡単に叫ぶこと。「初めに叫びがある」ことを知ること。2、3年前に当時高尾に住んでいたT夫妻が遊び来た時に部屋に積んであったジョン・ホロウェイという人の『権力を取らずに世界を変える』という本のタイトルを見てWちゃんが「いよいよ極まってきたね」と笑いながら言ったのはとても良い思い出だけれども、その本の自分は本当に初めの部分しか読んでいない。その最初の項目は「叫び」

初めに叫びがある。われわれは叫ぶ。
私たちが何かを書くとき、あるいは私たちが何かを読むとき、初めにあるのが言葉ではなく叫びであることは忘れられがちです。資本主義によって人間の生活が引き裂かれる事態に直面したとき、口をついて出るのはノー!という悲しみの叫び、恐怖の叫び、怒りの叫び、拒絶の叫びです。
理論的反省の出発点にあるのは、反対、否定、闘争です。怒りからこそ、思想が生れ出るのです。「思想家」というときに普通にイメージされるような理性的なポーズから生まれるものでもなければ、安楽椅子に深々と腰掛けて存在の神秘について沈思黙考することから生まれるのでもありません。
私たちは否定することから、同調しないことから出発します。それは、いろいろな形をとることがあります。はっきりしない不満のつぶやき、落胆の涙、怒りの叫び、自信に満ちた雄叫び……不安、困惑、憧れ、深刻な動揺……。


・そういう本を読んでいた。そして家じゅうにに積んであるどのような本にも同じことが書いてあるのだと思う。「言葉よりも前に詩があった。」「言葉よりも前に歌があった。」そして「言葉よりも前に叫びがあった。」そのことを何度も確認する必要がある。そのことを何度でも確認する必要がある。そのことから思考を、もしも思考をするのならば、そのことから立ち上げなければ、その思考にはほとんど意味がないということを確認するだろう。それは「普通の言葉で話をする」こと。普通の言葉で話をしなければいけない。


・そして驚くべきことに普通の言葉で話をすることが何よりも難しいような場所に辿り着いた。ニュースを見ているとほとんど言葉を失うような、呆れて何も言えないような、希望がないことを示すような、そういうトピックスが流れているけれども、それとはまた別に、そのようなニュースを語る語り方が、そのニュースを伝聞する人の話し方が、そのニュースに対するリアクションでもあるような言葉が、そのニュースと同じように、あるいはそのニュース以上に、普通ではない。


・その「普通さ」と「普通でなさ」について、この秋は、そしてこの冬は、考え続けるのだと思う。本を読んで、その本に書かれた事柄を考える。その事柄はほとんどわからないし、誤読かもしれないことから自分の考えを立ち上げようとするしかない。そしてそのようなことは本当に役に立たないことなのだと最近ふと思った。「『役に立たないこと』は、その役に立たなさによって、むしろ社会にとってある意味有益である」という口実は、もしかすると本当に口実に過ぎなくて、本当は、本当に、役に立たないことは端的に何の役に立たないのだから、少なくとも誰か他の人と共有すべきことでもないのかもしれない、と思ったのが、一番最近自分に訪れたひとつの「驚き」だった。そして驚きは人を変化させる。


・方法について。方法のイメージ。説明できないことを統合するのではなくて、完全に切り離すこと。切り離した上で、別の時間を与えること。別の時間の流れに流すことで、生き延びさせること。地下水脈のようなイメージ。「地上が世界のすべてではない」ということを信じるために、そして「この戦いの敵か見方か立場を明らかにする」以外の存在の可能性を信じるために、そして「普通の言葉で話をする」場所の感覚を持ち続けるために、切り離すべきポイントがある。切り離すべきポイントを見極めるだろう。


・モードが切り替わる地点にいるけれども、その変化をまだ説明することができない。長い長い「楽しい時間」が終わったのかもしれない。暗号のような、普通の言葉で記録する。