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  映像研究

夏の真ん中、台風

・201907270911。市立図書館にきた。今日は一日自分のことをする。台風が来ている。梅雨明けはまだ発表されていないらしいが日差しの強さは完全に夏。汗をかく。暑くて家では作業できない。本屋とか映画館とか喫茶店とかそういうところに行きたいと思う。その行く自由がある。それが夏ということなのだと思う。

 

・たとえば10年前ならばこの時期は必ず山に行っていたことをふと思い出した。7月は南アルプス。8月は北アルプス。テントを広げ、テントを干し、山と山の間に何事かを考えようとしていた時が確かにあった。可能性しかない。あの時の「何事か」とは何だったのだろうと思うことがある。学問的な縦軸・横軸の座標を持たずに片っ端から本を読んでみる時。おそらくガイドブック的なものも手にしただろうが、それでも今考えると「無謀な」読書であったように思う。無謀と可能性は接続される。夏になると「無謀な読書」のことを思う。

 

・「外国語を習得する」とは一体どのようなことであろうかと考えたりもしながら、フランス語の文法の参考書を手にした7月だった。覚えなければいけない事項が次々に現れる。自分は大学で確かに基本的なフランス語の文法を学んだはずなのだが(だから単位を取得して卒業できたはずなのだが)そのほとんどが消えている。なぜ消えるのか。いつ消えたのか。他に楽しいことがたくさんあったからなのか。しかしもう一度今システマティックにその道をもう一度通ってみると、全然別のところに辿り着くかもしれない。そのことを待っている。「いつか一度しっかり語学をやりたくなるかもしれない」と予感したことがあったとして、予感は予言よりも正確に未来を示す。

 

・一昨日読んだ『水は海に向かって流れる』から木皿泉『すいか』を思い出したならば、いつでも浅丘ルリ子演じる教授の「遅すぎることはない」という言葉を思い出す。「可能性(と無謀)」を正面に見た言葉を信じたり信じ直したりする。中断。