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  映像研究

今は秋

 
・今日から私は、心の旅人。そう思って毎年、新しい季節を迎える今日この頃。色々なことを思い出しながら、色々なことを想像しながら、新しい季節を迎える。新しい季節は主に楽しくも、楽しすぎて「大丈夫か?」と思うような、想像した以上に、騒がしい未来が、誰もが誰かを、待っているとか、いないとか。忘れてしまわないうちに記しておきたいことが、いつも沢山ある。


・秋になると家の中の物を捨てようという気になる。どういうわけか、家の中の物を、必要最低限の物のみを残して、ごっそり丸ごと捨ててしまおうかという気持ちになる。それは動物が冬眠の前に、食べる物を巣の中に抱え込もうとすることと、むしろ、少し似ているかもしれない。季節の変化を前にして、自分の身体と道具と空間を、コックピットを点検するように、整えたいと思う。都市で生活する人間は驚くほど多くの物を持って生きているから(と僕は思っている)それはそれでもちろん素敵なことでもあるのだけれども、そうではない、簡素な生活のようなことに憧れたりもするのだと思う。


・それが果たされるかどうかはまた別の問題として。しかし「憧れる」というのは適切ではないかもしれない。というか個人的には「憧れる」ということがあまりよくわからないのだから、何かが自分の目の前にあれば「夢中になる」ということの方がしっくりくるかもしれない。


・2000年前後に購入したであろうスニーカーが次々に崩壊していくのを切なく思いながら、しかし「それはそういうものだ」と理解して、燃えるゴミとして処分する。それは刹那い。と同時にでも、その感じ方は、自分に何かを教えてくれている。ガイドになっている。


・先週の水曜日に神奈川近代美術館の葉山の方で『ビーズインアフリカ』という展覧会を観に行ってきた。「ビーズ」というのは、あの、子供のころに遊んだ数ミリの穴の空いた粒のことを指すのではなくて、糸的な物を通すことで造形が行なえるような物体はすべてが「ビーズ」なのだということに、そして「ビーズ」とはそのような造形の基となる概念なのだということに気がついて、はっと新鮮な気持ちになりながら、展示されている品々を見る。


・貝や卵の殻や、色々な素材を使って、身につける物を作る。そしてそれらの物は、とても大切にされているように思った。違うな。「大切にされている」というか、それは「選んだ物ではない」という感じがしたのだった。「気に入ったから選んで大切に使っている」とか、そういう判断が介在しないような、それはもう、そこにあるのだから、手にして、身につけることが、決まっているような物。もちろん素材や柄や色は、物凄い工夫がされていて、技の粋のようなものがあって、そして思考した跡みたいなものがそのまま表われていて、だからそれは間違いなく複雑な判断の結果として存在しているのだけれども、しかし、それは例えば自分が普段使っているような日用品とは、別の成り立ちをしているように思う。そして、そういう物のあり方を目にすると、自分はそういう物を「自然」でも「人工」でもない、何か極まった種類の物として見て、くらくらしてしまう。


・例えば人類の歴史の中で「何かを選ぶ」ということは、どういうことなのだろう?そういうことを「デザイン」を仕事にしている人が考えているのならば、デザインすることはとても楽しい、そして奥深いことなのだなとふと思った。アイロニーぽい話だけれども、例えば現代のこの国に暮らす人びとの大半が「着るものはユニクロ的なもので良くね」と考えて、そのような量販店で、シンプルでユニセックスな、カラフルと言えばカラフルなような、どことなくユニフォーム的な衣料品ばかりを着るようになったならば、それはそれで「『選ばない』結果としての必然性を持った/ヴァナキュラーな(?)物」として、いつか、未来の考古学者は理解するのだろうか。


・そんなことを考えながら、そういえば某カレー屋の4周年の記念のTシャツを作ったりもしていた。自分が作った物(この場合はプリントした、ということだけれども)を、他の人が身につけてくれていたりすることは、普通に嬉しい。この嬉しさもまた自分に何かを示しているのだと思う。そういう感じが、自分がこの先にやってみたいことに、なる。