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  映像研究

木の様子と住むことについて

 
・木曜日は家の人と二人ともに仕事を休みにすることができたから、ドライブへ出かけた。箱根の「ポーラ美術館」の『紙片の宇宙 シャガールマティス、ミロ、ダリの挿絵本』という展覧会を観ることを目指しつつも、日常の生活圏内から少し離れた場所へ行くことが本当の目的だったかもしれない。10月後半の箱根は少しだけ紅葉が始まっていて涼しい。ちょうどカメラは壊れてしまっていたから目で記録する。あるいは手で記録をする。触れることで記録をする。あるいは言葉で。車で箱根を走っているとそのアップダウンで土地の形状を想像することができるように思った。あるいは山を貫いている道路のありようを感じる。そして車を停めると木や土の感じが気に留まる。ポーラ美術館の敷地内には遊歩道があって雑木林を少し歩くことができる。大きなブナの木や「ひめしゃら」の木の表面の木の皮の様子が印象的だった。


・そういえば木について考えていた。古今東西あらゆるところに「木についての言葉」はある。木皿泉の『昨夜のカレー、明日のパン』という小説もその中の一編として読むことができる。「木と人の境界」と言ってみて、そこから何をイメージできるか。あるいは木を見つめるという行為がどのような考えを与えてくれるのか、その広がりを考えている。ところでそのように考えるのは、家の前の雑木林が、まさに現在進行形で伐採されているということと関係がある。自分が住んでいる場所の近くの環境がこれほどまでに変化することは初めてだったかもしれない。その変化を、その変化を見て聞いて「痛い」と感じることを、覚えていようと思う。雑木林が切り開かれて住宅街になったりすることは、あまりにもどこにでもある当たり前のことであると理解しながら、しかしその「どこにでもある当たり前のこと」が、これほどに人の気持ちを落ち着かないものにすることを、覚えていようと思う。理解はできてもナイーヴな感覚のレベルではやはり「痛み」のようなものを感じる、ということをしっかりと覚えていようと思う。そしてそれを容易に言葉にできないということも、覚えていようと思う。


・数日前にCINRAというウェブサイトのインタビューで高木正勝という人が京都の山の方での暮らしについて話しているのを読んで、そこに掲載された写真を見て、ああ良いなと思う。しかしその「良さ」は、誰もがお金を払えば手に入れられる生活を羨ましく思うようなこととしての「良さ」ではない。その生活自体が変化の中にあって、その変化はきっと環境の変化と思考や身体の変化がつねに触発し合いながら展開しているような「変化」であるのだろうな、と想像できるようなこととしての「良さ」だった。


・住むことについても、時々考えて、考えることから、また新しく生活を更新しなければいけなかったことを思い出した。