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  映像研究

物と光の日記

 
・毛の物を使わずに10月を過ごすことができなかった。ウールの靴下にウールのニット。あるいはフリースを着て寝る。どうにかコットンとヘンプでやり過ごしたかったけど寒かった。秋が深まる。秋が深まると朝晩は寒い。この季節を良い季節だと思う。秋になると湿度や温度に敏感になる。温度を調べて湿度を感じる。空気の中の水分を感じる。目に見えないものを感じるあるいは想像する。しかし想像は見ることだけに関わるのではなかった。あるいは見ているものの感じの変化を思う。その変化を見ようとする。見えているものからその変化を思う。それは光の変化かもしれない。秋の光はクリア。今まで生活していた色々な場所の秋の光を思い出す。または旅行で訪ねた場所の秋の光を思う。そして秋の山の光を思う。


・「物」について考えることができる。「物が有るあるいは在る」ということから考えられる広がりを辿りながら、物をじっと見ることや物に触れることの楽しさを考える。哲学や文学の言葉から離れて自分の生活の中にあるふとしたときの物との関係から何事かを考えることができる。ホンマタカシという人は猪熊弦一郎という人の集めていた物を撮影した写真に『物物』という言葉を与えた。前田英樹という人には『在るものの魅惑』という本がある。「物について考える」ことと「何かが『在る』」ことについて考えることは重なるかもしれない。そしてそのような思考の範囲に「光」もある。「光を痕跡として残すものとしての写真」もある。それらに「言葉」や「名前」はどう関係するのだろう。


・今井康雄という人の『ヴァルター・ベンヤミンの教育思想-メディアの中の教育』という本を読みはじめてみた。自分が気になっている全然別の事柄だと思っていたことが接続されているような思考に出会うことは面白い。「ベンヤミン」と「メディア」と「教育」はどのように交差するのか。例えばジル・ドゥルーズという人の書いていた文章の中に「ゴダールの教育」というような言葉があったことを思い出し、では「ドゥルーズの教育」はどうなのかと思うと森田裕之という人の『ドゥルーズ=ガタリの教育学-発達・生成・再生』という本もあった。「教育」は必ずしも「学校」という施設あるいは制度とは関係ないかもしれない(あるいは積極的に関係を保留にしてみる)。「教育」を「人との関係」というくらいにずらしながら、同時に「メディア」の方はその語の本来の意味の広がりとして「あいだにあるもの」くらいに考えてみる。


・ネットワークのテキストを辿っていると予期せず文章と出会うことがある。吉岡洋という人が書いた『「弱さ」と愛の物語』という文章は1999年に書かれた文章だということだけれども、自分は確か2001年か2002年くらいにそれを読んだ。「読めなくなっていた文章を読めるようにした」と記してあったその文章を自分も十数年ぶりに(偶然)読んだことからも色々なことを思い出す。自分はその当時この文章を読んで、どこか「助かった(救われた、とは表現したくないのだとしたら)」と思ったかもしれない。あるいはこの文章を読んではじめて「沈黙」ということを考える対象とできたのかもしれない。そして弱さも沈黙も絶対的なものであるようにも思いながら、同時に相対的な問題としてあらゆるところに2000年にも2014年にも存在することを少し思った。コンピュータ・ネットワークでゲームのようなことを続けているならば、その弱さや沈黙に、より焦点が合いづらいかもしれない。そして弱さも沈黙も変化し続ける。「私はそういった意味での『沈黙』のこともわかっているし、でもわかっている上であえて逆にむしろこうして言葉を話しているしあなたにも言葉を求めているのですよ?」と語りかけることしかできないこともある。「馬の首を抱きながら涙を流すニーチェ」に惹き付けられながら、沈黙の創造、そして創造における沈黙を、人に伝えられるかたちで示すことはできるかどうかと考える。あるいは2002年くらいの自分もそういうことを考えていたかもしれない。


・「物」についてだった。最近学生の人が書いた文章の中に「ファインダーを覗いていると、物と『目が合う』ように思う」というフレーズがあって、思わず「ああ、そうだよなあ」と思ってしまった。そういう感じ方を言葉にしてアウトプットできることは本当はとても凄い、ということを伝えたかったけれども、そのことを一体(その文章を書いた人やその他の人に)どのように伝えたら良かったのか。写真を撮るということは「Aという物を見て、カメラを持ってAに向けてシャッターを切ったら、Aの写真が撮れる」というようなことではない。だけれどもそれは駄目な意味でのスピリチュアル的なこととも違う。またそれは「Aのまわりを何となくぼやっとさせて「ふわふわしたA」を見せること」とも関係がない。駄目な意味での暮らし系のエフェクティヴなニュアンスは結局ディズニー的な慰み物を生成することになってしまうけれども、そういうこととも違うのではないか。

名前は究極の叫び(Ausruf)であるだけでない、それは言語本来の呼びかけ(Anruf)でもある。これによって、名前のなかには言語の本来法則が現れる。つまり、自己自身を語り出すのと他のすべてのものに語りかけるのとは同じことなのだ。[……]絶対的に伝達可能な本質的精神としての言語の集中的全体性と、普遍的に伝達する(命名する)存在としての言語の拡散的全体性は、ともに名前において頂点に達する。


・その物を前にして、その物と距離を置くことでその物の機能や有用性から離れて、その物の名前を声に出す。「名前は叫び」だと思う。名前を呼ぶことは行為だと思う。ときには「触れられない」からこそ「名前を呼ぶ」ということがある。「言葉による会話が不可能である」からこそ「名前を呼ぶ」ということもあるかもしれない。その場合は「沈黙の代替としての『名前を呼ぶ』こと」があり得る。そしてしかしさらにその手前にあって「本当の沈黙」のようなこと、名前を呼ぶこともできないくらいに「見ること」しかできないときの、目を見開きながら口をただぱくぱくするだけの状態、あるいはそのある種の興奮の後に訪れる凪のような状態と「写真を撮ること」はどこかで繋がっているように思う。とても受動的で、だけれども何かが勢いを持って生成しているような状態と「写真を撮ること」は繋がってはいないか。でもそのことが「ファインダーを覗いていると、物と『目が合う』」ことと繋がっているのかどうかは、わからない。