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  映像研究

ファッションについて思うこと

 
・『装苑』という雑誌に小沢健二という人が書いていた『うさぎ!』の番外編という文章を読んだ。それはファッション雑誌に掲載されているファッションについて書かれている文章で、その文章を読んだことからファッションについて考えたりもした。あるいは結構いつも自分はファッションについて考えているかもしれない。ファッションと「おしゃれ」について考えることが好きだ。


・衣料品をほとんど買わなくなった。衣料品をほとんど買わなくなったけれども衣料品について考えることは増えたかもしれない。衣料品とそれを着ることについて。あるいは衣料品とそれを買うことについて。衣料品というものと他の誰かがどのように関わりながら暮らしているのかについて。そして何かを「おしゃれだ」と思うことについて。生活の中で「何かを『おしゃれだ』と指し示すような意識」が生まれることについて。それぞれ考えたりもする。


・生活の中で「何かを『おしゃれだ』と指し示すような意識」が少なくなっていることは、衣料品をほとんど買わなくなったこととは、多分、あまり、関係がない。多分、今まで、何かを「おしゃれだ」と思っていた、そのような感覚に飽きているのだと思う。そして飽きたならば、それは何かが変わるきっかけなのだとも思う。自分が持っているあらゆるものに突然飽きる、ということがあるのか、どうなのか。「飽きる」ことと「変わる」ことについても、そういえばずっと考えていたかもしれない。


・それでファッションについてだった。「蛍光色」も「総柄」も「着古されたもの」も「アウトドア用品」も、「おしゃれ」を通り過ぎていった。通り過ぎながら自分の日常になった。そして今の自分の日常は、ほどほどにシンプルでスタンダードな何かなのだった。「蛍光色」も「総柄」も「着古されたもの」も「アウトドア用品」も、それにときめいていた気持ちを見失ってしまった。それは一体どういうことだろう?


・これはメンズに限ったことなのかどうなのか。おそらくはもう5年以上前から空前の「定番ブーム」という矛盾したような事態が起こっていて、「定番のアイテム」「あの人の定番」「間違ってない定番」「今年の定番」「今欲しい定番」など様々な定番が売り出される中で、カタログ雑誌よりもむしろ「革製品をお手入れするためのムック」や「洋服をきちんと洗濯するためのムック」が出版されるのも、どうなのか。日本人はもう充分に買った、だからこれからはお手入れする国民になるのか、どうなのか。


・そして自分もお手入れをしている。例えば15年近く履いているブーツのソールを張り替えて、日々履いている。それは日常的なことで、何かを大切に思う気持ちを持ち続けるということで、しかし同時に何かへの抵抗でもあるのか、どうなのか。自分以外の誰もそのことを「何かへの抵抗」だとは考えないような種類の『抵抗』があり得るのか、どうなのか。全国民が一斉に「お手入れ」を始めることについて、そのようなことがあり得ないかもしれないなりに、そのことについてどう考えるか。どう考えるべきなのだろう。


・例えば「衣」が、例えば「食」が、例えば「住」が、それを「日常」だと考えることとはまた別のこととして、それを「何かへの『抵抗』である」と考える人がいるのか、どうなのか。そう考えることについて、どう考えるのか。自分はそして、どう考えるのか。どう考えていたのか。今、そういうことを、何度目かに、考えている。そして、そういうことを考えることは楽しいことなのだと思う。初めに「楽しい」と思う気持ちがあった。そして「楽しい」ことをどこまでも追求するようなアクティヴィティが、同時に何かへの「抵抗」でもあるような状況もあった。そして状況はつねに変化している。


・「転用する」ということについて考えてみることから、この文章を書き始めたかもしれない。それはもう5年以上前のことだった。それくらいいつも「転用する」ということが、確かな基準としてある。「何かを『間違って使う』ことだけが新しい状況を作り出す」と思うような気持ちがあった。そしてそれを「おしゃれ」として名指したのかもしれなかった。


コンセプチュアル・アートと呼ばれるような20世紀の始まりからの人の思考の営みの中から「何かを『転用する』」という発想のようなことを学ぼうとしていたのかもしれなかった。ある物を別の用途で使用すること。明確な用途を持った物を、全く役に立たない使い方で使用すること。労働を放棄すること。全く役に立たないような人間であること。それは何かをハッキングすることでもある。その「ハッキングする」対象を、例えば「社会」とか「既成の概念」とか「歴史」とか名指すことはオシャレではないのか、どうなのか。


・いずれにしても本当は誰もがその「何かをハッキングする」ことだけが「おしゃれ」という概念の核心のようなもので、例えば「そのTシャツおしゃれだね」という時のそのTシャツも本当は何かをハッキングしている、ということを知っている。エクストリーム・スポーツのエクストリーム性のようなことを、公共の空間で完全に私的に振る舞うことを、新しい言葉をつくることを、人はなぜおしゃれだと思うのかについて、本当はみんな全部知っているのだと思う。でも例えば日常の中ではその感覚を忘れているのかもしれない。


・ファッションについてだった。この夏が一段落したら、自分は「おしゃれ」について今一度きちんと考えようと今思った。なぜなら最近その方面が「手薄」だったからだ。思い出さなくてはいけない。言語について考える、芸術について考える、公共性について考える、しかしその最もベースの部分には「おしゃれ」があるのだった。「驚き」と「ハッキング」と「楽しさ」があるのだった。そういうことを思い出して、そして思い出すことから、何か新しい思考を立ち上げなければいけない。


・抽象の夏だった。抽象の夏はあっという間に通り過ぎるだろう。その後には別の季節が来る。ファッションについてだった。