・うっかりしているとあっという間に春が過ぎ去って初夏と呼ばれるような季節に突入しつつあるということに、2枚の写真を並べてみることで気がついた。危なかった。多くの緑の植物は蕾を膨らませてたり芽を出したりする季節をとっくに通り過ぎて、すでに次から次へと鮮やかな色の、眩しい色の、突き刺すような色の、葉を展開させていた。なぜそのことに気がつかなかったのだろう。なぜそのことに気がつかなかったかといえば、第一にぼやっとしていたということ、第二にバタバタしていたということ、そして第三に日々の変化は緩やかであるから、あまりそのことを意識しなかったということが挙げられる。
・そこで定点観測だった。写真を通してみたならば、引っ越してからのこのひと月の時間の、植物の、変化を知ることができる。「変化」を知ることができた。窓から見える景色を並べてみたならば、その違いに驚く。そして新しく住んでいる稲城の家の窓から見える景色は、物凄い力を持っていて、それは高尾の山の麓に住んでいた時の感じとはまた違った感触を受けることができる。感触のある場所。感触のある風景。
・感触とか、質感とか、素材、マテリアル、物質、物質の抵抗感、という話を色々なところで色々な人としていたような気がするこの4月。通っている大学の授業で先生がふと「物を触っている人の謙虚さ」と言った。そういうことを自分はこれから知るのだと思う。そういう予感がある。この間久しぶりに会った友だち、一年半前に熊本に移って農業を始めようとしている友達夫妻の妻の方は「言葉を扱う仕事をしながら時々山に行くことで得るものがあって/そこから農業の仕事に通じることがある」というような意味のことを言っていて(眠かったから詳細は曖昧)そこでも「物質感」「マテリアル」という言葉があった。
・そこで考えられている物質感ということとはまた少し違う、だけれどもまったく違うものではなく、自分にとっては「言葉」は物質感を持っていて、マテリアルで、抵抗感があって、組み立てることも、なでることも、掘り起こすことも、できるような気がしている。昨日話した後輩はイベントを運営する中で人と会って話すことも、それと近いようなことを考えると言っていた。言葉の質感と、文字通りの物体の、物質の素材感とがいま目の前にあるような気がしている。物に触れるように言葉に触れることで謙虚さのようなことを知ることができるだろうか。それは自分のこれから先の基礎体力のような、筋肉のようなものになる。必要な力を使うための、必要な筋肉のようなものと、そのイメージ。