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  映像研究

6月は勉強をする月にしてみよう。差し当たって写真のこと。

 
・たびたび、繰り返し、同じことを考えている。たびたび、繰り返し、少しずつ違うことを考えていた。そのような事共を傍らに2012年の6月が始まる。軒下に造られた燕の巣はあのようにいつでも人たちを喜ばせるのにも関わらず、一方で軒下に造られた蜂の巣はなぜそのようにいつでも人たちを恐れさせるのか。刺すからか。刺されるかもしれないからなのか。刺されるかもしれないと思いながら生活するかもしれない、というような「かもしれない」気持ちにざわざわしながら、人はいつでも長い棒を手に持って、軒下の蜂の巣を叩き、落としてしまう。そうして叩き、落としてしまった後で「あ、全然やらなくても良いことやっちゃった」ということに気がつくのかもしれない。壊された翌日に、蜂は新しい巣を造り始める。それを観察して、何かを思う。


・これは6月2日のことだけれども、業務が始まる前にI口君からおすすめされていた、表参道のRAT HOLE GALLERYの『Elad Lassry展』を観に行く。そういえば今考えているような事柄のうちの幾らかは、いわゆる「ポストモダン写真」と呼ばれるような写真について考えていたことからやってきた思考なのだった。Elad Lassryという人やRoe Ethridgeという人の写真を見ているときの、ある感覚、気分、テンション、思考、のようなものが、自分の、ある感覚、気分、テンション、思考にぴったりとくるような気がしたのだから、その理由について考えてみたいと思っていて、そして実際に考えたり、考えなかったりしていたこの一年。あの備忘録や、この備忘録や、「リゾーム」についての備忘録の、その時間の続きであるような時間としての、今を捉え直す。


・例えば『差異と反復』と題された分厚い本が部屋の片隅にごろっと(分厚いから)転がっていた(もちろん読めていない)。しかしその題名を都合よく解釈して、その「違うこと」と「繰り返されること」について、それこそ、何度でも、色々なことを、考えることができる。そのような問題(というと堅苦しいから、興味、くらいかも)の系が一方にはあって、そしてまた一方には、一見すると全然違う興味の系が、例えば「ポスト・フォーディズム」という概念だかを大きな柱の一つとしてあるような、労働や、経済や、メディア・コミュニケーションの系が、ある。それらは、いつ、どこで接続されるのか、交差するのか、自分では何となくわかったつもりでいるのだけれども、案外とその接続は難しそうだとも思っている。その間に横たわるような事柄として「多様性」を、外国語で言うならばマルチチュード?を、その表現としてのアクティヴィティやアートを、並べてみなければいけない。というこれはまた少しだけ違った話。


・Elad Lassryという人は写真によって、あるいは写真を使って/イメージを見せることで/イメージを操作することによって、何をしようとしているのか。どのような問題提起をしようとしているのか。そういう話を3日の夕方に国分寺のモス・バーガーでしていた。一枚の写真の中にイメージが複数あること。ひとつの画面(あるいはタブロー?)の中に違う種類に属するイメージがあること。それがしかし「コラージュ」のような統一性とは違った存在の仕方をしていること。またはひとつの画面と、隣の別の画面が、違う種類に属するようなイメージであると感じる時に、では「同じ種類のイメージとは何か?」「違う種類のイメージとは何か?」という問いに答えるよう促されること。(まだまだ考えられることはありそう)


・様々なイメージを相対的に捉えることが出来るように思いながら、しかしそれはあくまでも「様々」であって、そこで「あらゆるイメージを…」と考えてしまう、ぎりぎり少し手前のところに留まりながら、それを「そのように相対的に捉えている自分」の主体の方に引きつけて考えず(というかそれをきっちりと避けながら)、むしろ、様々なイメージの流れの方に、身を投げ出すような行為としてのイメージの提示。「イメージを提示する行為」、だからそれは、基本的には、「撮影」と「制作(展示できる状態にすること)」による作品とは根本的に違ったアートワークなのではないか、というふうにも考えられる。


・そして流れは、時間を伴う。そして展開するイメージは、つねに「同じであること」と「違っていること」のあいだの、幾つもあるようなレイヤーの中を彷徨うことを促す、のかもしれない。それはあらゆるルールが可能なゲームで、唯一「俯瞰すること」を許さないようなこと、なのかもしれない。


・それで、では、そのようなアートワークは、しかし、多くの、ほとんどの?すべての?現代的な芸術がそうであるように、(何事かについての)認識を再び、考え直すように促すのであるならば、では、ここでイメージについて/イメージを使って、考え直させようとしていることは、どういうことなのか?(問1)そして、そのような認識の再考を(やんわりと/しかし確実に)迫るような思考は、どのような動機によってなされるのか?(問2)


・いつかはその動機を「倫理」と仮定してみることから考えを始めてみた。けれども、その仮定は(最終的にそこに近いところへ行きたいとしても)やや早急だったような気がしないでもないような今日この頃。それはもう、一般的に「ポスト・モダン」と呼ばれるような、何事だか、何者だかの動機であっても、それは「倫理」でない、ということは難しいような、ぼやっとした議論にしかならない、のかもしれない。であるならば、その「何事かを正したい」ということと、イメージの問題の間を、もう少し解像度を上げて、もう少し停留場を増やして、もう少し具体的な風景や言葉(インタビューのような)を織り交ぜながら、その点と点の間に、はっきりとした(しかしもちろん一直線ではないような)線を描くための、リサーチをしよう。そのことが結果的に、また別のところにあるように思っている、労働や、経済や、メディア・コミュニケーションの系と繋がるきっかけになるかもしれない、と思う今日この頃。