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  映像研究

合間の備忘録(編集の後記)

 
・編集することの面白さと難しさについて。編集をしていた。編集は面白い。編集は難しい。5月5日に行なった「MM街のつどい・読書会」のレポートを記しながら「編集することは面白いけれども難しいなぁ」と思ったりしている、時は既に5月も終わり。


・編集することも、そもそも何かを言葉にすることは面白いけれども、難しい。現象を言葉にすることも、また、気持ち、のような何事かを言葉にすることも、面白いけれども、難しい。そして今の自分ならば、特にその難しさについて思う。例えばそれは某FBで友達の展覧会が紹介されているその文章だったり、しばらく前だけれども友達がやっているお店がウェブ・サイトに紹介されたときのテキストに対して思うことだったりする。その、そこで感じる、小さな違和感について。


・「あなたが言いたいことはこういうことですね?」という介入が、時に愛情のような何かになって、時に暴力のような何かになるかもしれないことについて。昨日打ち合わせのような、打ち合わせを口実にした歓談のような夕食の時間に話していた、ある出来事を「社会活動」と考えるのか、あるいは「アートワーク」と考えるのか、はたまた「生活に必要な行動」と考えるのか、あるいは……、という話も、そのような意味での「介入」と関係している、かもしれない。


・そういえば、もうしばらく山に登っていない事とどこかで繋がっているように、日記らしい日記を記さなくなった、かもしれない。人と会ったことや、人が話した事柄を、イニシャル的なノイズを交えながら記しておく、ということすら、今はあまりしていなかった、ということに気がつく。それはそのような記録が、自分にとって必要ないからなのか、どうなのか。または「日々の出来事が『具体的な出来事』には留まれず、解釈や物語を必要としている」ということなのか、どうなのか。


・「〜があった…そして〜があった…そして〜があった、そして…」という記録の方法は、果たしてどのような意味で編集と言えるのか。あるいは「編集する」ということに対して、微妙に微妙な距離を保ちたいということなのか。もうずっと10年以上に渡って、例えば吉田直哉という人が書いていたような「何かを表現する以上『ありのまま』ということはあり得ません」というような考え方を一方で思いながらも、しかしまた別のときには、中平卓馬という人の『植物図鑑』のような写真を目の前に考える体験もまた、普通にある。


・『植物図鑑』の写真において「判断」は、どのようなレベルでなされているのか?という問いは、いつも、つねに、ある。それは何度でも思ったり、考えたりすることで、実際に植物の写真や鉱物の写真を撮っているときには、少しだけ、そのような思いや考えに立ち戻れるように思う。