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  映像研究

私は元気です。

 
・「元気ですか?」と訊ねられて「元気です」と応える。「元気ですか?」と訊ねられて「元気です」以外で応答することは難しい。とか、そのように記すと、何かいま自分が元気ではなくて、しかし元気であると応えなければいけないという抑圧の中にあるかとかどうだとか、そういう話になるのかならないのか、わからないけれども、とりあえずそういうことはない。ただ、その応答を何か独特で面白いなと思いつつ、ところで自分は基本的には元気です。そしてそれとは関係なく「落ち込むこともあるけれど、私は元気です」というフレーズが以前から好きです。


・そして、しかし、あるいは、別に元気でなくても良いのだとも(強く)思う。元気なときもあれば元気でないときもある。だから「元気ですか?」と訊ねられて「元気です」と応えるでもよいし、あるいは「元気だけど、やる気はありません」と応えるでもよいし、または「元気はないですが、やる気はあるよ」と応えるでも、正直でも、そうでなくても、なんでも良いのだと思う。


・色々な時がある。色々な状態がある。元気な状態があれば、元気でもない状態があって、いつも気分は複雑なのだから、本当はつねに言い表せないような何かなのだと思う。そして色々な状態はすべてがプロセスで、プロセスであると同時に、もしかするとそれが(強いて言うならば)結果のような事でもあるのだから、例えば他の人に対してならば、その人の、その色々な時や、色々な状態を、じっと見て、じっと見て、なおもじっと見て、そして何か言葉を投げかけてみる、ということをしてきた(つもりです)。そしてこれからもそうしていきたいと思う、という、これは何の話だろう?


・「元気」の話だった。本屋に行けば(本屋によく行く)本屋の棚には沢山の「元気になるような本」が並んでいて、そしてこともあろうに本当に表紙に『元気になるための本』と書いてあったりするのだから、そんな本を手に取る事はどうなのだろうなぁと思う一方で、しかしそれはそうだろうなというか、今のこの時の、この場所の、この法の、このムードの中に生きていて、全然「元気じゃなくない=完全に元気である」人がいたならば、もちろんそれはそれで全然良いのだけど、しかしよっぽど図太いというか、逞しいというか、我が道をゆくというか、ともかく「凄いなー」と思ったりすることも事実なのだから、そういう『元気になるための本』が存在したり、そのような本を手に取ったりすることは別に良いのだ、ということはさておいて、引き続き考える。


・自分も実際のところ(かなり曖昧な「実際」だけれども)元気になるために本を読んでいる。「元気」と言う必要があるかどうかわからないけれども、例えば「ああ、色々な人がいるな」だったり、例えば「ああ、自分が考えてたことに似たことを他の人も考えているんだな」だったりする。そういうふうに本を読むことは「知識を得る」という感じではなくて、自分が仮に立ち上げてみた考えの形(例えばそれは建物のようなイメージ)が、どういう部品で出来ているだとか、色々な角度から見たならばどういうシルエットに見えるかだとか、個々の箇所はどういう規則で組み上がっているだとか、そういうことを知るために、モデルとしての言葉を必要として、その言葉を探すために読む。そしてそれはあくまでもモデルなのだから、「モデルから形態を作る」ということを(自分としては)なるべく避けながら、しかしモデルは傍らにある。そして、それはまた、例えば「自分自身の欲望を知る」ということでもあるのか、どうなのか。


・「数ヶ月前に確か一度読んだような…」と思っていた本をいま手に取ってみて、それが読んだことがあるのか、あるいは読んだことが無いのか、半信半疑で読み進めていて、あ、ここ良いこと書いてある!と思って(それは「元気になるような言葉」かもしれない)思わずドッグイアを折りかえそうと思ったら、もう既に折ってあった。もちろんそれを折り返したのは数ヶ月前の自分でしかない。それはジル・ドゥルーズという人のインタビュー集のような『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出・現代の名著)』という本で、そこでドゥルーズという人がフーコーという人について書いて(述べて)いる、その部分を読んで、数ヶ月前の自分ははっとした。はっとした自分は、ページを折り返し、はっとしたことからぼやっと何かを考え、そして考えた事柄をうっかり忘れながらも、また別のことを考え、そして再び読み、はっとして、はっとしたからページを折ろうして、折ろうとしたページが既に折られていることにまたはっとして、そしてまた何かを考えるのだろう。

誰かに心酔すると、選別などしてはいられない。たしかにある本が他の本よりも好ましく思えることはあるでしょうが、しかし、やはり、どうしてもすべてを受け入れるしかないのです。すべてを受け入れるなら、力が弱まると思われた時期は、実験と創造的純化をつづけるもうひとつの時期にとって絶対に必要なのだということに気がつくだろうし、あれこれ回り道をしたのはなぜなのか、傍から見てもすぐにはその理由がわからない、そんな道をたどっているのでなければ、力が弱まる時期は新たな啓示にたどりつくことができないということも理解できるからです。だから生涯の仕事について「ここまではいいが、その先がまずいな。もっとも後でまた面白くなるか」などと公言する人はどうしても好きになれない。仕事全体をとりあげ、注意深く見守るべきであって、けっして評価をくだしてはならないのです。その仕事が枝分かれをおこし、一箇所に停滞したかと思えばやがて進展をみせ、突破口を切り開いていくのを見守り、仕事全体を受け入れ、受け止めなくてはならないのです。さもなければ何ひとつ理解できないでしょう。


ドゥルーズという人がフーコーという人とフーコーという人の書いた物について述べている上記の部分のテキストをジョッキーして、それを日常的なレベルでの他者とのコミュニケーションについての自分の考えに転用してみたならば、それはどうだろうか。あるいはまた、それを教育の場でのコミュニケーションについての自分の考えと照らし合わせてみたならば、それもどうだろうか。いつも色々な人に心酔しているのかもしれないし、いつも色々な人に心酔したいのかもしれない。部分には切り分けられないような「全体」をいつもイメージしている。