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  映像研究

ほんの少しキーボードを手ばなす

 
・2013年9月17日の火曜日は台風が過ぎ去って自主的な4日間の夏休みの2日目だった。今は新宿のコーヒーチェーン店にてキーボードを打っている。macbookの具合が悪くて、特にトラックパッドの様子が変なのだから、修理に出てもらおうと思っている。しばらくキーボードから手をはなす。数日のことになる予定だけれども、その間に忘れてしまわないように、このタイミングでも何事かを書き記しておこうと思った。この数日はクリスチャン・マラッツィという人の本を読んでいて『資本と言語』『コミュニケーションが仕事になるとき』という題名があらわすような内容から何かを考えるはずだった。文章を書くための意識にならなくてはいけない。色々考えるべきそれ以外の事柄を時々クリアにカットして文章を書こうとする。そしてそのための準備運動のようなことを色々とするだろう(本来の準備運動の言葉の意味のようにからだを動かすかもしれない)。


・高校で行なう映像の授業について考えていると、自分がこれまで考えてきた、あるいは今現在考えている「映像」とはいったい何なのだろうと思わざるを得ない。アイフォーンだった。アイフォーンで撮影をしてアイフォーンのアプリ的な何かで編集してアイフォーンで鑑賞する。制作のプロセスにアイフォーン以外のメディウムが入り込む余地がないということから何を考えるか。自分も「ただとも」になれば良いのか(適当)。そのような環境で「ビデオカメラで撮影をして/コンピュータに取り込んで/ソフトを立ち上げて編集をして/書き出したのちDVDに焼いて/プロジェクターで投影して鑑賞」ということにどのような意味があるとプレゼンテーションすれば良いのか。「こういうのも楽しくないかい?」では弱いのだった。そもそも誰よりも自分が、映像は情報で、映像はコミュニケーションでもあると思っていたのだから、それはそれで良いはずなのだった。物質でなさが、即時性こそが、特権的な関係が気がついたら崩されていたりするようなことが、映像の環境の不思議な面白さであるはずだった。あるいはカメラが存在する環境の可能性の中心にあるはずだった。だから(繰り返すならば)それはそれで全然良いのだった。


・「トライ&エラー」ということの可能性をもう少し考えてみたい(考えてみて欲しい)ということに今気がついて、だからもしこの次に自分にそういう機会が与えられるならば、そのような発想を映像をつくるプロセスの中で考えたい。無限に近いトライ&エラーの可能性の中で、それでも何かを選択する、しかもそれが絶対的な正解ではない(そもそも絶対的な正解があり得ない)ということを知りながら、それでもなおかつ何かを選択することによって、何事かのイメージが(差し当たり)定着される、ということの不思議さと面白さを知る。そしてそれを「国語」でもなく「美術」でもない、つまり「言語」でも「ビジュアル」でもない、その両方に関わるようなイメージのリテラシーとして考えることができないか。そのような領域を設定してみようと思った。アイフォーンのことから。


・言葉を書いていると物質のイメージが、何かの手触りが、あるものと別のものを組み合わせるということに関わる練習が、そしてそれらの色々な断片が地図を作るような感覚が必要になるから、どうしても洋服のことを考えざるを得ない。完全に言い訳だった。季節は秋だった。クローゼットの中の真っ赤なシャツや、緑色のスエットパーカ、太畝のコーデュロイのパンツ、スエードのブーツ、色々なイメージが、別のイメージと組み合わされることを待っている。アレンジされることを待っているかもしれない。シャツならばどのボタンがどのようなイメージを発生させるスイッチになるのか。6つあれば6つとも違ったイメージのスイッチになるかもしれない。もう一息しっくりきてなかったパンツの丈を直そうとするかもしれない。ブーツにオイルを塗る。窓を開ければ秋。クリアな空気に相応しいイメージを探す。そういえば写真を撮影して、同時に写真について考えていた。自分が撮影する写真と、自分が考える対象にする写真は、あらゆる意味で違っているけど、どこかで関係している。写真を撮影することはあまりにも楽しい。「線的な運動のイメージ・その断面或いはシャッター」について考える。