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  映像研究

お盆

 
・お盆について。迎え火と言って13日。仏壇に手を合わせてしかし自分のありったけの願い事を唱えてしまった。そういうことではないのか。正月の神社の何かと間違えているのか。いずれにしても「盆と正月」とは確かにその通りだなと思う最近。もう10年くらい前からどんどん正月が好きになってきて、なぜこんなにも好きなのかと考えてみれば、あの独特の静けさがある。経済活動が少しずつ速度を緩めて一旦静止する(ように思える)あの感じ。年齢とともに明けましておめでとうメールなどの野暮な作法は減り、むしろ年賀状を送り合う。そういえばテレビを久しぶりに見たならば、そこには実時間があった。インターネットの情報は有限な自分の時間にいくらでも言葉と映像を詰め込み膨んでいく性質があるけれども、テレビは時計と同じようにただ時間が流れている。そのことをむしろ少しの懐かしさとともに新鮮に思う。「いま・この時間」にどこかのスタジオで芸人が漫才をしている。その様子を見る/聞くこと。その知覚は膨張しない。


・そしてお盆である今。お盆にもまた正月と似た種類の「別の時間の流れかた」を感じたのはそういえば初めてかもしれなかった。「お盆」と「終戦(敗戦)記念日」が重なるのは日本という国においてどういう意味があるのか、とも考える。それは偶然なのか。ある共同体が一斉に「死者」のことを考える。「たまには『死者』について、『死ぬ』ことについて考えてみませんか?」とやんわり呼びかけられている。そういうことは必要なのだと思う。なぜ必要なのか。それはおのおのが自分のタイミングで考えた方が良い。不動産屋に行くと時々話し好きのおじさん(あるいはおばさん)がその地域のこと、歴史的なことを話してくれることがあって、そういうことを聞くことも面白い。「はぁ(物件を探しにきただけなのですが…)」と思いつつも、とりあえず聞く。「関東大震災ってあったでしょ」「はぁ」「あれで亡くなった人たちが運ばれてきたのね」「はぁ」…という、それは怪談ではなかった。あるいは「多磨霊園」という地名あるいは駅名を、ふと冷静に考えてみれば凄い。「霊」の「園」だ。そしてそういう場所が至る所にある。生きている者どもは、霊の園の、その僅かな隙間に暮らしているのかもしれない。


・少し前にジェフリー・バッチェンという人の『時の宙づりー生・写真・死(SUSPENDING TIME:LifeーPhotographyーDeath)』という本を手にしたことも関係があるかもしれない。古い写真、身元や来歴が分からない写真、あるいは家族アルバム、ヴァナキュラー写真と呼ばれるような写真について考えようとしている。写真について考えようとするとどうしても、光が化学薬品によって像として定着していたかつての(とあえて言ってみる)銀塩写真/アナログ写真/フィルム写真/ケミカル写真、のことを考えざるを得ない。デジタル写真はネットワークという別の怪物的なものの突き出した器官の一部である。その怪物は現在進行形で蠢きながらかたちを変えるけれども、そうした怪物とは切り離されたところで、かつての写真は「見えないもの(物・者)」と結びついている。そして、だから、写真が不気味な存在であった時代に思いを巡らせながら、いつも/つねに「写真は不気味である」ことを考える。例えば「アルバム」は膨大な時間の集積で、今はもうない時間がイメージとして/物体として存在している。それを近しい人が指差して何か言葉を話す。その異様さを思い直すこと。


そのことを最初に考えたのは確かに東北で写真洗浄のボランティアをした一日だった。「写真洗浄」という文字をボランティア・センターで初めて読んだ時に「写真を洗うんだなぁ」と思った。いや、まさか写真を洗うとは思っていなかったかもしれない。集会所のようなところに津波で流されてしまった家族アルバムが大量に置かれていた。その光景にくらくらしていると、「できる範囲で良いですから」というようなことを言われた。「できる範囲…。」その膨大な量と、津波の凄まじさと、写真というもの/家族アルバムというものの言葉にし難い力が自分にあるテンションを作って、ただ写真を洗う。写真を濡らして、泥をこすって、干して乾かす、簡単なお仕事ですが、不思議な時間だった。写真の面を指でこする感触は暗室で作業をしていた時を思い出させた。そして強くこすりすぎるとイメージは水に溶けてしまう。そのことも不思議だ。写真を洗いながら、何枚かに一枚は水に溶けてしまう。そのイメージはどこに行くのか。どこにも行かないのか。何十枚ものイメージが溶けた、たらいの水を見て、「イメージの水…。」と思った。


・そんなことを考えながら、もうしばらく手にしてなかったフィルムカメラを倉庫的なスペースから引っ張りだしてみた。ペンタックス67というカメラ。手に取って色々な部分に触れて、動作を確認してみる。「シャッター」は「ボタン」ではなく「シャッター」であると思った。ましてや「タッチパネル」とは一切の関係がない。「箱」だった。光を招き入れ、あわよくば定着しようとするための箱。こんなにもただ「箱は箱」であり、それはただの箱なのだから、ネットワークと関係しようがない。どちらかというと「道ばたに落ちている石」とかの方が存在として似ている。パーソナル・コンピュータ、カメラ、石。カメラはパーソナル・コンピュータとではなく石と似ている。水に洗われ転がりながら何かが刻まれる物としての石。掘り起こされ削りだされて光を受けながら色を変化させるものとしての石。「かつて写真は石と似ていた」かもしれない。だから古い写真を拾い上げる行為は、道に落ちている石を拾い上げる行為と似ている。そこに必要以上に(?)崇高さを感じ取ることには節度を(?)持ちながらも、しかしそこに何か「物以上の」ことを感じ取る。仮にそれを「イメージ=オブジェクト」としてみる。本質的にはあらゆる「物」は「イメージ=オブジェクト」であり得るけれども(例えば古着だってそこにイメージを読み取ろうとすることはできる)、しかし写真はフィルムまたは紙でありながらもイメージそのものでもある。あるいは石は存在がシンプルなのでイメージが読み取りやすい。化石などはほとんど写真だ。


・コンテンポラリーなアートについて多少なりとも考えていると、アヴァンギャルド以外はキッチュという価値観がじっとり染み付いているから(それはそれで重要なことではあるけれども)、どうしても(アヴァンギャルドについて考えるためにも)もう少し考えを先に進めなければいけない。あるいはネットワークをベースにして考えていると、結局は広告のことしか考えられないのならば、そのことを相対化するためには、別のイメージのあり方を構想する必要がある。そして「アヴァンギャルドでコンテンポラリーなアート」が「アーカイヴ」と言い始めてからもかなりの時間が流れているのかもしれない。そうした中で銀塩写真/アナログ写真/フィルム写真/ケミカル写真で(写真を)撮ることは、本当にただのキッチュなのか?ということを疑ってみる必要もある。イメージの(社会的な)機能について考えるならば、デジタルの映像で実演してみるという戦術はもちろん有効だし正攻法だと思うけれども、現代のイメージのありようについて考えるならば、別の戦術も開発しなければいけない。それが「フィルムで写真を撮ること」であるとも思えないけれども。