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  映像研究

隙間の時間の日記(備忘録)

 
・ある日のある時間ある隙間の日記。午前中の隙間。考えていることは色々とありながらも記す余裕が無いことによって流れ去っていく出来事。勿体無い出来事。MOTTAINAI時間。今。そういえば今は高尾に引っ越してきて四度目の春や初夏になる。春や初夏になれば種を蒔いた。日常的に料理を作るのに使うであろう紫蘇やバジルの種を蒔いた。または朝顔の種も蒔いた。確か一昨年に当時高尾に住んでいたT夫妻から貰った朝顔の苗。その朝顔の孫。夏になれば孫も咲く。


・学校に通っている。火曜日、隔週で水曜日、木曜日、金曜日は通っている。通って授業を受けている。備忘録を記すようになって学校に通うのは初めてなのだから(厳密に言えば2008年は通年の講座に通っていた)、学んでいる日々をどのように記録すれば良いのかわからないけれども、そのわからなさも含めて良い感じだと思う。約一ヶ月半が過ぎて、それまでの数年で自分がひっそりと考えていた事柄を一度言葉にしてみて、外に出してみて、見て、そして、さて、どうしようか、というこれからなのだと思う。どうしようか。考えることは沢山ある。


・定期的に計画している読書会の予定が、また学校とは違った部分で良い感じに自分の生活に緊張感を与えてくれる。「面白い、以上の読書」について、はっとさせられるような気持ちをいつも持っている。あるいはその「面白さ」を他の誰かに伝えることについて考えざるを得なくなる。得なくなる、というか、考える。自分の言葉がどこの誰に向いているのか考える。わかりやすい、という言い方でなくても、丁寧な、伝えかたについて考えるだろう。丁寧な、あるいは意図的に丁寧でない、伝えかたについて考えるだろう。


・ソーシャル活動についても考えていた。ソーシャルなネットワークに言葉を記すことについても考えていた。匿名である言葉の有効性(があるのかどうか)についても考えていた。自分はこのような半分匿名・半分匿名でないような備忘録を記しているくらいだから、その(もはや死にかけの)匿名性の意味みたいなことについて、ずっと同じ感覚を持ち続けてきたけれども、しかし、ルールはいつか変わる。あるいは緩やかにつねに変化している。そのルールを、あるいは空気を、いつも傍らに感じながら、自分も自分の感覚で何かを変化させていきたい。


・フレキシビリティに対して、欲望を持つこと、欲望を持ち続けること、欲望を知ること、欲望を諦めないことが、抵抗であるというようなことを、いつか記したけれども、その言葉にもまた別のソーシャルなネットワークによってリンクが貼られて、自分が思いもよらない人が読む、というようなこともある。それはさておき「フレキシビリティ」だった。「ポスト・フォーディズム」であり「マルチチュード」だった。数年前ならば手当り次第に意味もわからず記してみたような語句が、今の、自分の生活や、他の人との関係や、色々な事柄を形容するのに適当であるように思えるならば、くらくらする。


・山に登らなくなったことをどう考えるか?


・何だかの放射性物質が降った後に生活していることを思いながら忘れながら思い出しながら軌道修正しながら話しながら祈ったりしながら食べたり食べなかったりしながらそれでも時間は流れていくこともどう考えるか?


・通っている大学のトイレがとても綺麗でいつも白くてピカピカした空間でそしてペーパーはつねに三角に折ってあるのを見ると、毎日何かを思う。あなたは何を「日常」と考えるのか?という問いかけがふと頭をよぎるのかもしれない。でもわからない。


・書き初めに書いたことを結構信じている。あるいは個人的な今年の漢字一文字的な感覚を持って生きたい。高尾に引っ越してきた年には「点」だと思った。それは「線」になると思ったし、実際「円」だと思った(not貨幣/むしろ「縁」だ)。そして空間のメタファーとは全く感覚が現れたならば、それを自分は「欲」と記したのだった。「物体」と、あるいは「物質」と考えていた記録は、今や「物語」に接することが何よりも相応しいように思えてしまった。思えてしまったのならば仕方がない。「欲。」と思いながら生活をしている。人は欲を、欲望を前にして、案外と平等であり得るのかもしれない、と不用意に記してみて、だけれども、そのようなぼんやりとした思考を、もう少しだけクリアにしたい。今はそれは決して丁寧ではない言葉。


・梅雨に入る前に色々な場所に行きたい。例えばそれは山でさえも。