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  映像研究

一ヶ月

・201902130956。前回書いてからちょうど一ヶ月経った。日記としては間が空きすぎているだろう。隙間の時間を取ることが難しかったが、そうして時間が過ぎていくと「書くこと」から離れてしまう。一ヶ月が三ヶ月になりあっという間に一年や二年になる。だから少しでも書くことを。言葉を外に表す感覚を取り戻すために。文章のリズムと日々のサイクルを獲得するために。多少壊れていてもよいから言葉を組み立てることを練習するために。そう考えて部屋を片付けてみたりしている。書くことと読むことを集中して進められるような環境を再生しなければいけない。

 

・そういう気持ちを挫かせるような状況がある。きっとどこにでもあるしそもそも「書くことと読むこと」が許されている場所など、そこここにあるわけではない。教育機関や研究機関ですらそうなのだろう。色々な人が色々な場所で色々な仕事に追われている。それは当然のことなのだ。この一ヶ月の間にも「仕事」と呼ばれること、「業務」と読んでいる何事か、についても色々に面倒なことはある。ベストを尽くしながらも、そのことだけに捉われないようなバランスはあり得るか。近くと遠くを同時に考えることの困難。それは「切り替える」こととは別の方法が要求されていることでもある。「統合する」ことも試してみるが、それほど達観することもまた難しい。結局それぞれに引きずり引きずられ、すべてが中途半端になってしまうことがほとんどなのだろう。それはいつでも万事がそうなのだ。その状況で最低限の質を保つためには。

 

・一ヶ月の間に「はてなダイアリー」の更新機能が停止する。なので「はてなブログ」からアップロードする。色々なことは色々に変わる。そういえばflickrの写真も少しずつ消されていくと知った。クラウドも永遠ではない。永遠? 記録を、ログを残すということ。「作品」と「記録」の重なりと違い。一枚の写真は記録であり作品でもあり得る。その記録ということにずっと拘っている。数年焦点を合わせて考えているつもりでいて、なかなか考えを先に進めることができていない。先行研究の吟味がなされていないのだろう。

 

・二月最初の日曜日は友人が展示しているDOMANIへ映像作品を観に行く。40分ほどの映像だが集中して一息で見るような映像。題材やメッセージへの興味もありながら、それが「映像」であること、映像の面白さに対して開いた作品であるという印象を持つ。映像の面白さは、たとえば「撮影と編集にある」と言うことができる。よい「撮影と編集」とは?おおらかな撮影と編集。自由な撮影と編集。思考を映す撮影と編集。「撮影」と「編集」でも勿論異なるが、作品になった時には「撮影」と「編集」は「撮影と編集によって織られたひとつの作品」になる。そのことの豊かさ。言葉で表現することの面白さが決して尽きぬように、「撮影と編集」によって展開される映像の面白さも尽きないことを信じるかもしれない。

 

・二月の連休には家族と長岡へ出かけた。卒業制作展を見ることと美味しい海鮮を食べることが目的だったけれども、予備校の先生だった方に会えて話ができたことも嬉しかった。自分が全然今のような自分でなかった頃を知っている人と久しぶりに会うことは面白い。面白いだけでなくたった数時間だけで物凄い情報量だった。もう少し頑張ってみよう(今の状況を継続してみよう、というニュアンスと、今よりも必死にならねば、というニュアンスとのブレンド)というような感慨を持って東京に帰る。

 

・数日前に業務の前に空いた時間でオペラギャラリーの石川直樹の展示。写真が良かった。自分は大抵の場合嫉妬から同世代の作家に対して距離をとって見てしまうから数年間どんな仕事をしているのか全然知らなかったが、普通に良かった。なぜ、どう良かったかについて、引き続き考えてみる。