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  映像研究

新しい時間に生きている

 
・あけましておめでとうございます。と言って2014年に生きている。日々の色々な出来事にその都度集中していて、集中しきっていて、気がつくとあっという間に時間が過ぎてしまった。いまそのことをどう考えればいいのか。


・しばらくのあいだ大学に提出する修士論文というものを書いていて、年が明けると同時に何とかそれを仕上げて提出することができた。その論文自体の完成度だとか、研究としてどうとか、もう少しこうすればよかったのかな、ということは色々にありつつも、ともかく一つの何かを仕上げることができたということが嬉しい。しかも文章を書くことは基本的にはひとりの作業なのだから、そういう「すべての判断を自分でしなければいけない状況」が新鮮でもあった。そしてそういうふうに、さも楽しかったふうに振り返ることができるのも、ともかくそれを仕上げることができたからだった。


・文章を書く、ということを例えばこの備忘録のようなものであれば2007年くらいから(ペースは様々であるにしても)続けてきて、それは自分にとっては、日々の記録でありつつ、反復的な訓練のようなものであると思う。そして出来事を「ただ書く」ということがある一方で、つい「書いてしまったこと」が自分のその先の方向を決める手引きになるような(なってしまうような)こともある。だからわからないことは書かないのではなくて、わからないことも、なるべく思ったように言葉にしてみることをしなければ、新しい考えは生まれないのだなと思ったりする。それからもちろんあらゆる表現のテクニカルな部分も、それは発想の方法も含めて、色々とあるのだなということも、やってみることで知ることがある。


・「なぜこのタイミングで大学院に行こうと考えたのですか」と2年間で120回くらい尋ねられて(月に5回の計算)その都度それぞれ120の理由すべてが正解でなくもないような、別の答えをしたけれども、やっぱりそれ(進学)を決めたのは2011年の春から夏にかけてのことで、その時間に考えたことは大きかったのだと思う。そして2011年の春から夏にかけて考えていたことは、それこそちょうどこの備忘録を記し始めた2007年くらいから考えていたことでもあるのだし、あるいはさらにそのもっと前から考えていたことが積み重なるようにしてできた「自分のテーマ」のようなことでもあるのだと思う。


・そしてそれは短くまとめることが難しいような種類のことで、かといって「はじまりも終わりもないような」日々のメモでもどこかしっくりこないような気がした。むしろ「日々の生=記録すること」それ自体についても考えてみるために、逆に徹底的に形式的な枠組みをつくることが必要なように思えた。ひとつひとつの言葉の選び方、自分以外の人が記した言葉と自分が記した言葉の関係を明らかにすること、はじまりと終わりを設けること、分類しようとすること、これとこれは似ているということを考えながら同時にこれとこれは違うということも考えるということ…などなど。そういう方法として「論文」というフォーマットは面白いかもしれないと思った。というこれらはすべて書いている間に考えたことだけれども。


・そういう「書く」という、ある意味でとても抽象的なというか、言葉の質感の世界に巻き込まれていくような、そういう日々を送りながらも、同時に現実には、毎日の色々な出来事がある。その毎日の出来事をまた少しずつ記録しておこうと思う。