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  映像研究

「あれはあれのオマージュ」

・202104132333。夜まで業務関連の映像編集およびアップロード作業をしながら、その待ち時間に今日の出来事を書いておいても良い。少しずつ自分の作業をする生活に近づきつつある。近づきつつある、ということは、まだその場所にいない。さらなる努力と工夫が必要。ともあれまずは健康。春の真ん中は心身のバランスを崩す交差点のようでもあるから気をつける。気をつけて気を緩める。そして気をつけて早めに就寝すべき。もう少しだけ作業する。

 

・今日は午前から数ヶ月ぶりに友人とのオンライン勉強会。昨年から一緒に読み続けてきた(訳はすべて友人がつくり自分は相槌や合いの手担当)Stephen ShoreのThe Nature of Photographsも佳境に差し掛かる。写真を見ることをいかに深められるか、そして写真を見る経験をいかに言葉に変換するか、という問題についてのヒントを引き出すことのできるテキストだった。今日は普段普通に使いがちでもある「写真を読む」という言葉を省みる。午後も引き続き今年度の勉強会の計画について話すなどしつつ15:00には終了。

 

・思い出して書いておくのは「あれはあれのオマージュ」について。たとえば朝に時計の代わりにJ-WAVEを流していると藤井風という人の曲を聴くことが多く、おや、この曲のこの感じはなんだっただろうかと気になって検索したならば、藤井風という人の『さよならべいべ』という曲は堺正章の『さらば恋人』を下敷きにしているのではないかという情報に辿り着き、聴き比べて、納得した。その納得したことを踏まえつつ聴き、面白いと思いながら味わう。Youtubeにアップロードされていた岡山市民会館のコンサートの様子が特に良かった。と同時にその視聴する行為について考えることもある。

 

・今日の勉強会の合間の雑談でも話したことは、教育の現場における、教員(と呼ばれる者)と学生(と呼ばれる者)の関係性について。たとえばそのような関係において「あれはあれのオマージュ」などと軽く口にすることの、時としてのあやうさについて。そのような事柄について教育に携わる誰もが色々な場で話しているように思う今。何かの変化に気づいている、ということなのだろうか。自分もこの春には自分の振る舞いを反省することが多い。それは単に「精度を上げる」というようなことではなく、むしろその「精度を上げる」という発想自体に、何か根本的な欠落があるのではないか、というようなことだった。「あれはあれのオマージュ」と指摘する種類の言説にどのような欲望があるか。

 

・「歴史について伝えること」が「マウンティング」になり得る、また「批評をすること」が「バッシング」になり得る、そうした認識に立った上で、教員(と呼ばれる者)はどのような種類の言葉を、どのように(と、その仕方を考えることは重要であると思う)、伝えるべきか。こうした事柄について今後考えが更新され続ける予感がある。それはこれまでも時々考えた「教育がサーヴィスになることの問題」とも関係があるが、しかし切り分けて考えるべきであるように思う。あるいは「教育がサーヴィスになることの問題」については、既に変化した後の現在があるのみとも思う。中断。