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  映像研究

なおも物質について

 
・2015年10月7日に駅前のコーヒー店にて記す備忘録。少し時間が空いたならばなるべく言葉を記しておこうと思う。それは準備運動のようなことで、ではその準備をした後に何をするのか。何事とかを考える。また言葉を記す。そうして日々の労働もある。自分が提供している(ということになっている)サーヴィスとは何か。その金額はいかほどか。金額に見合うサーヴィスを提供できているのか。そのように考えることは決して楽しいことではない。しかしそのことを積極的に楽しもうとしている人がいるとして、それはそれで良いのではないか。何が「良いのではないか」なのか。多様性や相対主義的な思考についてのテキストをそういえば読んでいた。


・今読んでいるテキストはそういえば多様性や相対主義的な思考と物質性について、その関係性に線を引いてみるようなテキストだった。なぜ「多様性や相対主義的な思考」と「物質(性)」が関係するのか。そのために呼び出されたのは60年代後半のミニマリズムと呼ばれる現代芸術の傾向であって、そこでは「芸術作品」と「物質」あるいは「物体」との違いが、際限なく疑問に付される(ようなミニマリズムの運動が研究の対象とされる)。あらゆる物質が、環境が、状態が、時間が、人間の一瞥をもって、芸術作品として見出されることとは何なのか(何だったのか)。


・例えば「石」が芸術にとって、特に現代美術において特権的なタームになるのはどういうことなのか。それはさしあたり「人為性」の反対側に、あるいは「匿名性」の方に…、などと問題として設定することもできるのか。その「石」への態度は、ある倫理性とも結びつく可能性を持っているのか。そういえば岸政彦という人の『断片的なものの社会学』でも、石への態度が書かれていた。そのテキストで「ああ」「はっきり言われてしまった」と思ったことは、石を「見る」ことは、石を「擬人化する」こととかとはまったく関係がない、ということだった。同時に現在においては「石」あるいは「石のようなもの」が「ただある」ということの喜ばしさ、ということもある。ニュータウンを歩いてみたならば、ショッピングモールを歩いてみたならば、都内の予備校の周辺を歩いてみたならば、まったく石が落ちていない。石はどこへ消えたのか。新宿では道に落ちている石よりも、デパートに陳列された石の方が多いかもしれない。河原で石を売っていたのはつげ義春の漫画で、そのような行為にいつくかの意味で「極まり」をそして「狂気」を感じるけれども、しかし「なぜつげ義春の漫画の人物は河原で石を売っているのでしょうか」と問いかけてみて、そのことを真剣に考えてみたら、どうだろうか。


・『美術手帖』の美術教育特集かなにかで読んだ記事に「小学生に粘土かなにかで石(のような物)を作らせて、それを石としてどこかに置く」というような授業の内容が紹介されていて(うろ覚えだけれども)、面白いなと思ってずっと覚えている。例えば大学生であっても「モノ派とはこのように・・・」という話をすることよりも、石を拾ったり、石のような物を作ってみたり、拾ってきた石に似せた何かを作ってみたり、そして石が落ちていた場所に石のような物をおいてみたりすることの方が意味があるかもしれないのだし、結果的にモノ派と呼ばれる人たちがそういった制作/行為に至ったモチベーションに触れられるかもしれない。モノ派のモチベーションに触れた方が良いのかどうかということはまた別の問題として。


・そして「見ること」の倫理的転換があり得る。「見ること」を「見続けること」へと展開させながら、その倫理的な態度を引き出そうとする方法(あるいは戦術)。「あらゆる物事はただ『起こっている』のです。私たちはそれを『見続ける』のです」と言葉にしてみて、あるいはアクセントをそのように設定したり、文章であれば以上のような強調のサインを加えたりすることが、しかし一体なんなのか。「それ、何にも言ってねえぞ」という声は簡単に想定される。一見「何にも言っていない」言葉は、しかし本当に「何も言っていない」のか。ここでは「何も言っていないようなことでも発話しているという行為においては何かのメッセージになているのです」というようなメタ・コミュニケーションだかを問題にしていない。そういった位相ではなくて、あくまでも(例えば)「あらゆる物事はただ『起こっている』のです。私たちはそれを『見続ける』のです」という(ような)言葉が、ある倫理的な態度に結びつくのか、つかないのか、ということを考えている。


・そしてひとつ思うことはその(例えば)「あらゆる物事はただ『起こっている』のです。私たちはそれを『見続ける』のです」という(ような)言葉は、どのような言葉の返答として想定されているのか、ということで、よりはっきり言えば、どういう種類への対抗としてそのような言葉が選び取られているのか、ということでもある。中断。