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  映像研究

朝のコーヒーショップでテキストをエディットする今日も

 
・あっという間にまた時間が流れる。昨日は節分で今日は立春だった。立春といって思い出すのは確か4年前の高尾に住んでいた頃の出来事で、家を出て近所の酒屋だか商店だかの前で、いままさに婚姻届を出さんとしている友人夫妻にばったり会った。思えばあれも不思議なことであったと今あらためて思う。そしてその時間の続きの今にいる。今のこの時間は全然違う場所にいて、全然思いもよらなかった出会いの結果として、節分ともなれば豆をまいていたりする。そういうあらゆる時間の続きの今にいることは、いつも信じることが難しいほどに面白いことだと思う。


・先週は2年間通った大学にオフィシャルに行く最後の機会としての「口頭試問」というものがあり、いつものことながら緊張しつつも、それを楽しむことができた。自分の研究に関しては、自分にとって相当に難しそうな課題があることがあらためてわかり、そのことを受け止めつつも、同時にひとまずはしかし自分が去年の後半の丸2ヶ月やっていたことが、あるいはそれまでの時間にもずっと考えていたことが、自分ではない誰かに読まれて、そして何かの感想や考えに繋がっているということが、素直に嬉しくもある。そうしてひとつの文章は過去になる。文章を書くということがどういうことなのかは相変わらずよくわからないけれども、それについて考える手がかりのようなものを見つけたようにも思う。


・日曜日には「このタイミングを逃すと難しいかも」と思って都知事選の期日前投票へ行く。選挙権という権利を手にして以来こんなにも確信が持てない、そしてどこに投票しても言い訳を考えてしまうような投票行為ははじめてだった。ソーシャルなネットワークに誰かが「投票したい人が2人もいるなんて幸せじゃないですか」という内容のことを書いていて(あるいはそのような記事にリンクを張っていて)確かにそうかもしれないし、あるいは本当にそうなのかなと、これもまた確信が持てないでいる。こういう「もしも」に意味があるとは思えないけれども(という注釈をつけた上で)もしも自分が2票持っていたならば、今回ばかりは別の人に投票したかもしれない。投票について考える。


・実家で留守番している時間があったから、ここぞとばかりに木皿泉の『昨夜のカレー、明日のパン』を読んだ。いくつかの場面で「ああ」と思う。ここに書いてあることが自分が今感じたかったことだと思った。木皿泉は時間について考えているし、だからこそ「消え去っていくこと」について書いている。『すいか』は何でもない日常生活がそのまま彼岸への入り口でもあることを、これでもかというくらいに示していたし、同時にそうした場所にいても「まだ、大丈夫」と思えるような湧きあがる力を描いていた。大げさではなく『すいか』というドラマがあったからこそ今の自分はこのような時間の続きにいるのだと思う。だからいつか木皿泉について文章を書いてみたいかもしれない。


・様々なことを学ばなくてはいけない。忘れてしまうことは忘れてしまうことだとして、それでも何かを残すということは、あるいは残そうと思うことは、いったいどういうことなのだろう。学びたい様々なこととは、いま生きている人からも、過去に生きた人からも、たくさんある。「なめたけ」はえのきを醤油などで煮たもので、案外簡単につくれるということを昨日初めて知った。この社会に生きている私たちの「一般的知性」は、確かにつねに収奪され続けているのかもしれないと思う。一方で例えば今後自分はこの人生のなかでマンションに住むことはあるだろうか。数年前ならば「マンションになんて住むわけないじゃないか」と思っただろうが、今は「そういうこともあるかもしれない」と思う。これはどういうことか。


・「こんなことが(一般的に考えると不幸であるようなことが)なければきっと自分はわからなかった」と人は言うだろう。『すいか』のお母さん(白石加代子)が「癌にならなければ知らなかった」と言うように。それは慰めとか、自分の現状をさしあたり肯定するとか、そういうこととも少し違うように思う。そういうときに考えたことは、知ったことは、そのあともしも忘れてしまったとしても、本当の意味での学びや知性になっているだろう。だから、そう考えると学ぶことは、少なからず残酷な背景を含んでいる。それがどんなに小さくて、微妙で、気づかないことだとしても、必ず、何かを学ぶきっかけにはほんの少しの絶望があるのかもしれないと考えた。だからきっと人はバイキングで皿に料理を取るようには、つまり「あれもこれも」「ないよりはあった方がよさそうだから」という理由では学ぶことはできない。このことの周りに「物語」がある。どうして自分は今までそのことを考えてこなかったのだろう。