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  映像研究

「来ました」

 
・文章、テキスト、資料、レポート、報告。全然書けない。全然書けないときに何かを読む、何かを見る、ということをしていると、書く気持ちはどんどん遠ざかっていく。遠ざかって見えなくなってしまう。夏休みの宿題は8/31にすべてまとめてやったりやれなかったりする性質とは何だろう。だけれども「書けない」では仕様が無いから、何事かを書いてみる。書くことはたぶん「自分がアウトプットしたものを読む」ということでしか助けられない。というようなことを考えて何事かを書くために数時間のブラウジングがあった。


・「2017年の3月」はそれ自体恐ろしい響きであるものの、しかし当然あっさりとやってきた。「2017年」はいつも「10年後」だった。それは自分にとっての何かが「2007年」に始まっていた/始まったからで、2007年の3月20日にふと「あ、いまならオンライン上に日記が書けそうだ」と思いついて書いてみた文章の続きがこの今だ。この今の言葉のタイミングや何かは2007年の3月の春のどうにもやることがあるようなないような時間の先にぽっかりと出来上がったスペースのようなもので、それもあり、2007年の3月にはこの文章を書き始めたこと以外に全く記憶がない。2006年の3月は『毎日の環境学』で、2008年の3月はアントニオ・ネグリだった。2007年の3月とはなんだったか?いずれにせよ2017年の3月20日はひとり静かにその時間の意味を考えようと思う。「あの頃の未来に僕らは立っているのかな」式の感慨について。


・そういうことを思い出したのは、一つには、たまたま買ってみた雑誌『EYESCREM』の古着特集で「渋谷区桜丘」という地名を目にしたことがあり、その記事を読んで「そうか、最近ではあそこには古着屋なんかがあったりするのだな」と思ったりしつつ、その場所に事務所があった、ある時期の、あの場所の、春の空気の感じを思い出す。何かが始まりそうで、しかし何事も決定的には始まることがなく、しかしそうであるからこそ、自分にとっては強烈に何かの栄養を蓄えていたような時間があった。と書いてみれば完全にそれは過去だ。


・準備運動のようなストレッチのような「書く」ことをしてみて、しかし現在のこのような時間の中にだって「記したいこと」「記しておいた方が良いこと」「記しておいたらあとで面白そうなこと」はたくさんあるはずなのだが、まったく追いつかず、全然どうでも良いようなことしか記すことができない。30分だけ時間があれば、心の中で周りの人に猛烈に謝りつつ古着屋に行っていたりするのはどういうことか。人の服と顔と言葉が気になっている。その他、業務の区切りについて。業務上の「良い結果」について。慰安旅行について。カラオケについて。フィルムで写真を撮ることについて。流動体について。墓参りについて。恵比寿映像祭。色々あったはずだった。


・しかしいずれにしても、2016年の10月くらいのときに「これはあと半年後なんて無事に来るのだろうか」と思っていたことについては、それははっきりと「来ました」と書くしかない。無事かどうかはわからないが、その時間は来て、今がその時間だということ。数ヶ月後に送り届ける短期系タイムカプセルとして「春物の洋服」を買い続けて、しかしいまはまだ寒い。それを着ることをして、そんなことを考えたことも忘れたら、おそらくまた別の季節になっているのだろう。今はともかく「勉強をすること」と「遊ぶこと」を熱烈に欲望していて、でもそれは大部分が被っている。重なっている。必要なことはじっくり考えることと(今でももう誰も恥ずかしくて口にしなくなった)丁寧に暮らすことなのだと思う。丁寧さを履き違えないように。そして「勉強をすること」と「遊ぶこと」が重ならない部分として「古着屋」がある。