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  映像研究

はじまる少し前(準備体操)

 
・新しい生活に慣れるには一定の時間がかかる。新しい生活。4月からの生活。新しい生活を送る。


・新しい生活は毎週、火曜日、木曜日、金曜日に学校に行って、授業に出席して、ノートを取ったりしている。配られたプリントをファイルしたり、授業の後には新しいクラスメイトと話をしたりしている。そして放課後には図書館で本を読んだりしている。新しいことを知りながら、自分にとってのテーマ、とは何だっただろうかと思い出してもいる。入学する前には一応その、テーマのようなものを提出していたのだった。例えばそれは「生政治時代の現代芸術とはどのようなものか」とかで、差し当たってそのように書いてみて、そしてそれはそれで嘘ということではないのだけれども、しかし今あらためてそのテーマのようなこと、の輪郭を描き直すために、自分がこれまで(ぼやっと)考えてきたことや(ぼやっと)考えられなかったことを点検してみたならば、ともかくもう少し熱心に勉強しなくてはいけない。


・新しい環境に飛び込むことは楽しい。楽しいと思える程度には大人になった。最初に多少居心地の悪い感じがしたとしても(現状既にしてないけれども)時間が経つと、まぁ落ち着くべきところに落ち着くだろう、というようなことも経験則として思うのだし、経験則とかっていえる程度には大人だ。大人であることは認めざるを得ない。その上で驚いたりすることも、それはそれであるとしても。


・そして本を読んでいる。本を読みたいと思うし、本を読まなくてはいけないと思う。「本を読むこと」について書いている時間を少し「実際に本を読む」時間に回してみようか、と思ったりするくらいに、読みたい本も、読まなくてはいけない本も、読んだら良さそうな本も、沢山ある。そして本を読んだらメモをする。メモをするだろう。大切そうな文に付箋紙を貼ったり、その部分を抜き書きしたりするかもしれない。あるいはあくまでも個人的な備忘録の範囲で(って何だ)大切だと思った箇所を打ち直してこのダイアリーに記入するかもしれない。そうすることによって、自分のテーマが明確になる、ということがきっとある。あるならばそれをしようと思う。そして今までであれば、文字通り「手当り次第に(振り回した手が偶然当たったものから)」読んでいた、しかしその「本を読む」ということを、もう少し、ある意味でのトレーニングのように、あるいは単に目的のために、流れを整えながら進めていけるようにしたい。そうでなければ、今自分が考えようとしていることについての考えをまとめることが出来なそうだからだ。


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・「本を読む」ことは、基本的には一人ですることだけれども(読み聞かせとか以外)、いつかどこかで知った「読書会」という本の読み方、あるいは人の集まり方があると知った時に「そんな集まりをいつの日か行なってみたいものだなぁ」と思ったかどうか。いや思った。隙あらば「読書会やろうよ」と言っていたゼロ年代の後半。そして時は流れてゼロ年代を通り過ぎて2012年の春になった今、読書会を行なってみることになった。言ってみるもんだし、思い続けてみるものだ。あるいは持つべきものは「何かを言ってみたときにその言ってみたことを一緒に実現しようとする友達」だ。そういう環境が有ることを、有り難い、と思う。それは「有るけれども、これはなかなか有ることが難しいことなのだよなぁ」と思う気持ちを持つということ。


・そして「読書会」について考える。あるいは色々と「読書会」について調べてみた。基本的には、ある程度の長さの本を、ある一定の期間(週に一度集まって2時間とか)で読む。その場で音読しながら読み直すこともあるし、またはその日の課題となっている部分を読んできた上で、その部分について話し合うかもしれない、と書いてみて、それはそのまま「学校に通っていた頃にした国語の授業」だったということを考えて、はっとしたりもする。そうか、あれは「読書会」だったのだな、と考えると小学校の国語の授業もちょっと良い。『きつねの窓』とかを音読して(。読みという仕組み)「きつねの気持ち」について考えて発表したりする、あの時間は実は「読書会」だったのだ。でも小学生的には、きつねのこととかはすっかり忘れて、その後にジャンプとか読んだりする。それもまた良いけれども。


・そして「読書会」について考えたならば「今何を読むのだろう?」と考える。あるいは「今何について考えたいのだろう?」と考える。本の読み方には色々とあるのだから(あって良いのだから)「楽しく読めれば良い」という気持ちの延長線上に「読書会ができれば読む本は何でも良い」ということもあるのかもしれないけれども(体を動かしたいのだからスポーツは何でも良いというように)、とは言え今本を読むために集まるのだとしたならば、それはきっと「何を読むか?」ということも大切であるはずなのだった。


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・例えばそれは「どうやって生きていこうか」というようなことについて、具体的な事柄を伴いながら、考えていくような集まりになるかもしれない。「どうやって生きていこうか」というフレーズは、何か事があることに(なくても)読む返す用の本棚に立てられている2000年の「unfinished」という雑誌のような書籍の中の、坂本龍一という人と細野晴臣という人の対談の題名で、その対談を自分は大学生のときに、確か「メディアアート2」とか何とかいうような授業のレポートの課題として読むことになった。その対談は「世の中はどんどん良くない方に進んでいっているように思う」「世の中がどんどん良くない方に進んでいく中でどうやって生きていこうか」というような内容で、そこに書かれている内容を普通に読んだならば、とても「メディア」のことも「アート」のことも、ましてや「メディアアート」のことなんて、全く考えられないような内容だったけれども、しかし今考えると、そのようなテキストを課題として出題してくれた当時の恩師には感謝したい、という、これは何の話だっただろう。


・「何を読むか」「何について考えるか」ということは、それはもしかするといつの時も「どうやって生きていこうか」にまつわる事柄なのかもしれない。それを学術書を通じて、科学的なレポートを通じて、識者と呼ばれている人たちの対談を通じて、時には物語を通じて、考えてみたり、意見を交わしてみたりする。それが一つ、読書会と呼ばれる集まりの目的だとするならば。


・そして、そのような漠然とした事柄を考える上で、まずは、今という時代が、どのような時であるのかについて考えてみたいと思った。もう少し厳密に言えば「考えてみたい事」は沢山(と同時に大きな一つでもあるけれども)あるけれども、誰か隣にいる人と意見を交換したい事は、そういうことかもしれない。もしも行き先のわからないバスだか何だかに乗り込んでしまったならば(以下比喩)、とりあえず偶然隣に乗り合わせた人に「あのー…このバスはどこに向かっているんでしょうか?」と恐る恐る話しかけてみるに違いない。それで「何か男の人が運転してるらしいですよ」とか「あ、今右に曲がりましたよね」とか(右に他意なし)言い合いながら、簡単には降りることの出来ないその乗り物の本質について、少しずつわかろうとするのだし、場合によっては、その乗客たちは相談して代表者を立てて運転手の方へ行き「このバスどこに行くんですか?」とか「トイレ行きたいんですけど」とか「ラジオつけてくれませんか?」とか言うだろう。あるいは「ガソリン足りてますか?」とか「これそもそもバスなんですか?」とか聞くだろう、という、これも何の話だっただろう。


・「今という時代が、どのような時であるのかについて考えてみたいと思った。」という話だった。そのような事柄を考えてみる上で、まずは「自分なりの仮説」を立てている人の考えを集めてみようと思う。「今という時代はこれこれこういう時代だと思います」というテキストを読んでみる。自分で読んでいる分には「ほう。」と思うだけかもしれないけれども、そのようなテキストを他の人と一緒に読んでみたならば、そこでもまた新しい会話が生まれるのだと思う。日々の生活の様々な事柄について話し合う場になれば良い。難しい言葉の意味を解釈する目的ではなく(途中の段階では難しい言葉の意味を解釈する必要も出てくるだろうけど)、自分たちが「どうやって生きていこうか」と考えるときの「何か」になれば良いと思う。「今ローンを組んで住宅を買うことってどうなんだろう?」とか「少子化対策って言われてもなぁ」とか「毎年給料が安くなってるんじゃないか」とか「自由に使えるお金が減っているなりにオシャレがしたいものだなぁ」とか、そういうことを話せると良いと思う。希望は沢山ある。