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  映像研究

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・学ぶためのノート、そのはじめに「研究の裾野、そして/あるいは、裾野の研究」と記してみた。研究することにまつわる様々な事柄と、様々な事柄を研究する行為について、日記とは別のカテゴリーに分けて書いてみようと思った。題名は何でも良かったかもしれない。しかしこのように記したときには、それは「ある事柄についての考えと、その事柄について考える方法について」というような意味を持つかもしれないし、それはともすればメタ的な、というか、考えることを考える、というような方法を採用するようで(そういうのあんまり流行ってないから)少し恥ずかしいような気がする一方で、しかし自分はいつだってそのような方法を通じて様々な事柄について(ぼやっとではあれ)考えてきた、という自覚があるのだし、あるいは(やんわりであれ)実践だか実験だかをしてきた、という意識もあるのだから、それは仕方ない。それは例えば言葉についてであれば「語る内容と、語る行為について考える」ということになるだろうし、あるいは例えば映像についてであれば「写す対象と、写す行為について考える」ということになるのだろう。そのような方法を採用することで、近づけるような場所があると思っている。


・それはたぶん、今までもそうしてきたし、これからもそのようにするだろう。しかし飽きると変わる。考える事柄を、並列に「&」と言ってみて(言ってはいないけど)繋げてきた方法とは別の方法があるのかもしれない、とふと思った。中心を想定した上で、中心それ自体について考えるのではなくて、その周りを測ってみるような考え方があるのではないかな、と思って、それをしてみようと思った。それが「考えること」と「学ぶこと」の違いだというのが、今現在の暫定的なイメージであるという、これは備忘録。


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・今考えていることは「今のこの時代がどのような時代であるか」ということだった。今のこの時代が、それ以前の時代からの継続でありながら、同時にただひとつの特異な状況でもあるとするならば、それはどのような状況なのか。そしてそのような状況について考える上で「ポスト・フォーディズム」とか「フレキシビリティ」とか「バイオ・ポリティクス(生政治)」とか言われるような概念だかはどのように役に立つのだろう。あるいはそのような概念は、具体的に私たちの生活のどのような場面(あるいは場面の変化)を指し示しているのか。そしてまた視点を変えてみたならば、そのような状況はどのように(マス・メディア/コミュニケーション・メディア/ソーシャル・メディア/デザイン/広告/芸術…etc)表現されているのだろうかと考えてみている。


・色々な本を読んでいる中で、差し当たって今読んでいるのは佐藤嘉幸という人の『新自由主義と権力―フーコーから現在性の哲学へ』という本で、この本の帯には「『新自由主義とは何か?』新自由主義とは、「自由放任」による統治ではなく、社会全体を競争原理で満たす介入主義的統治である。新自由主義的統治の先駆的分析であるとともに、その批判を既に提示したフーコーの講義『生政治の誕生』を精密に読み解き、現代的権力に即応する抵抗の戦略を、その最深部において構築する。」と書いてある。そしてその本のはじめの部分では、ナンシー・フレイザーという人の論考を参照しながら「ポスト・フォーディズム」について、つまり「フォーディズムの時代」と「ポスト・フォーディズムの時代」との違い、あるいはその変化について書かれている。それは自分が知りたかったことだ。あるいはいつか考えたかもしれないけれども、今もう一度まとめておきたい事柄だ。


フォーディズムとは大量消費と高賃金、大量消費を前提とする経済体制であり、それは、労働の科学的管理のシステムであるテイラー主義、またニューディール期から第二次大戦後にかけて確立されたケインズ主義的福祉国家(税制措置や社会保障といった所得の再配分によって、公的福祉の領域を作り出すような統治形態)とリンクする形で機能していた。フレイザーは、このようなフォーディズム的統治をフーコー的意味での規律権力に重ね合わせつつ、その特質を以下の三点から定義している。

(1)フォーディズム的規律は社会を全体化するものであり、その全体化において、以前は決して計画的組織化に従うことのなかった多くのものを含めて、社会生活の主要な側面すべてを合理化することが目指された。その中には、単に工場の製造過程ばかりでなく、労働者の家族生活や共同生活の合理化までが含まれる。
(2)フォーディズム的規律のこうした全体化は、あくまでナショナルな枠内における社会的な集中であった。以前には分散していた様々な規律が、国民国家の新たな社会空間に収斂していったのであり、それによって、ジャック・ドンズロが「社会的なもの[lesocial]」(公的福祉の領域)と呼ぶような重なり合った諸装置の濃密な結合体が形成され、そこで社会管理の諸装置が相互に結合されるようになる。
(3)フォーディズム的規律が生み出した社会編成は、主として個人の自己統御[self-regulation]を通じて作用してきた。フォーディズムの改革者たちは、内面を自己管理することのできる自己活性化的な主体の方が、あからさまに外的権威に服従する主体よりも合理的、協力的、生産的であると考え、新しい組織形態と経営慣行を生み出した。つまり、個々人を「主体化=服従化し[subjectify]」、それによって彼らの自己管理能力を増大させることが目指された。


このようにフレイザーは、フォーディズム的規律の権力配置の特徴を、社会の全体化、国民国家の枠内における社会的な集中、主体の自己統御という三点に要約している。それでは、ポスト・フォーディズム的体制において、それはいかなる権力配置によって取って代わられるのか。引き続きフレイザーを参照する。

(1)一九八九年以後のポスト・フォーディズム的体制とはグローバリゼーションの体制であり、その結果として、以前には国民国家のレヴェルで行われていた社会編成は、トランスナショナルなレヴェルで起きるようになっている。公衆衛生、治安、銀行規制、労働基準、環境規制、反テロリズムといった問題において、国家を基盤とする機関は、トランスナショナル及びインターナショナルなレヴェルでの方針と協調することを求められている。ナショナルな編成は消えたわけではないが、その規制のメカニズムが他のレヴェルに存在するメカニズムと接合されていくにつれて、中心的なものではなくなっていく過程にある。従って、現在出現しつつあるのは新たなタイプの統制の構造であり、それはグローバル化された統治性という多層的システムである。
(2)今日支配的なグローバリゼーションの新自由主義的形態においては、大規模で、自由で、トランスナショナルな資本の流れによって、ケインズ主義的な国民経済の舵取りは不可能になっている。フォーディズム福祉国家からポスト・フォーディズム的「競争国家」への変容、というのが今日の傾向である。減税、規制緩和、公的セクターの民営化といった「(ナショナルかつ)社会的なもの」の領域の解体をグローバルな規模で進めている。
(3)フォーディズム的規律がグローバリゼーションに面して衰退していくにつれて、その自己統御への志向も消失する傾向にある。加えて、ケインズ主義的な国家運営の衰退は、失業者数の増加と、下方への利益再配分の減少、従って不平等と社会的不安定性の増大を招いている。その結果がもたらす空虚は、個人の自立を促す試みよりは、あからさまな抑圧によって埋められる可能性が高い。


フレイザーは、ポスト・フォーディズム的統治性の特徴を、グローバル化された多層的システム、「(ナショナルかつ)社会的なもの」の解体、自己統御の衰退と暴力的抑圧の回帰、という三点に要約している。フーコーの講義『生政治の誕生』は、明らかにこうしたポスト・フォーディズム的統治性の分析の先駆けとして読まれるべきものなのである。

・というこの本を読んでみて「フォーディズム」と「ポスト・フォーディズム」について、今まで考えていたようなことから「なるほど」と思った部分もあれば「おや?」と思った部分もあったりしたのだけれども、いずれにしても、そのような変化の結果でもあり、あるいは過程でもあるかもしれないのが、「今」と言った時の、その状況のベーシックな説明の方法なのだと思う。そういえばあれはもう既に4年前のことになるイベントでは粉川哲夫という人との対談の中で廣瀬純という人が、(その直前に来日する予定だった)アントニオ・ネグリという人を紹介しながら、そのような「労働の形式」と「抵抗の方法」とを対応させて、説明していたことも思い出す。ポスト・フォーディズムの時代における抵抗とは、どのようなものになるか?という話だったのか、どうなのか。


・いずれにしても、仮にその「ポスト・フォーディズムの時代」という定義を採用するならば、そのような今という時代における、例えば「抵抗について」、例えば「コミュニケーションについて」、例えば「(芸術)表現について」、どのようなことを考えられるのだろうか。裾野を歩きながら考える。