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  映像研究

読むこと・見ること・書くこと

 
明日15日に開催する第3回の読書会の準備をしている。(これを偶然読んだ方も興味がある方はどうぞご連絡を)それにしても第3回だ。「第3回」という響きは良い。何かを続けている感じがする(と思う)。何かを始めて、そして継続することは、大切なことだし、何より面白い。続けていく中で初めてわかることがある(といいなぁ)。続けていく中で初めて得られるものがある(と信じる)。特にそれが「読書」であるならば、それはページをめくり、章が変わり、また別の本を読み始めるように、いつも、始まりと終わりは、ひとつの行為の、ひとつの流れの中に、確かに存在している、と思う。


・何の専門家でもない人びとがわらわらと集まってきて、本を読み、そして語り合うだろう。今回の課題テキストは和田伸一郎という人の『民衆にとって政治とは何か』という本の補講部分「公共サービス空間とその自由のなさ」という部分にしてみた。「公共サービス」と呼ばれる、色々な種類の、色々な事例について、読むことをきっかけにして、しかし、もう少し色々な、自分の日常の、これまでの、そしてこれからの、話ができたならば良いな、と思う。


・「公共サービス」と「クレームを言うこと」、そして「クレームを言われる可能性」に対して、いつも開き続けなければいけないという苦痛と屈辱(というと大袈裟ですけれども)について、そういえばいつかのドーナッツ・チェーン店で考えたこともあった。どうして「個人の感想」にわざわざ「個人の感想です」と記さなければいけないのか。全く分からない。それは、印刷してあるもの、放送しているものは、すべて公正中立である、という幻想があるからなのか、どうなのか。しかしそもそもその「公正中立」は「多数決の結果」でしかないかもしれない。そう考えると「クレームに怯え続けること」は「多数決の結果を先取りすること」に繋がる。既に勝っている意見は、ますます勝つ。既に勝っている意見に対する違和感は、形を持たない。はっきりと思うことは、そのような一連の回路が、とにかく、まったく、おしゃれではない、ということです。



・全く別の話。友人がちょうど去年の今頃書いた日記を送ってくれて、それを読む。山に行ったことや、その、2011年の夏の時期に考えていたことなどが書かれた日記だった。良い文章だった。きれいな言葉で書かれた文章だった。ああいう文章はなかなか書けるものではないと思う。文章を書くこと、そしてそれを誰かが読むことは、そのお互いにとってのささやかな交換で、言うならば「教育」だと思う。その言葉の沸き上がってきた源に想いを馳せて、その流れを想像して、辿ってみる。川を源流まで遡るように。大抵は途中で飽きてアイスとか食べる。


・自分の文章も、また、そういう何かであれば良いと思う。自分が書いた文章を、自分で後から読み返すことも、時々は面白い。面白いし、意味があることだと思う。そのようなことを考えながら、読書会の準備と称して(誰へのクレームの言い訳でもなく)『民衆にとって政治とは何か』を読み通そうとしていたら、その本の中に、今の自分にしっくりくるような文章を見つける。見つけた文章を、書き記しておく。

いくつかの出来事には、それがある場所に生起する前に、いつ起こってもおかしくないという状態が潜在的に長い間続いているということがある。それが、ちょっとしたきっかけで、潜在的なものから顕在化されるのである。例えば、分断されている人びとの中にくすぶり続けているたくさんの不満の種が、何かの拍子に一気にシンクロ化して繋がる、ということがあり得るのだ(日本の全共闘運動、新左翼運動についての文献は、多くが、誰が(どのような組織が)どのような信念において「主体的に」活動したか、という類の記述が多いように思われる。しかし、出来事が生起するためには、「主体的な」努力を超えたところにある「何か」がなければならない。この何かこそ出来事そのものである。したがって、それらの運動における、<出来事>的な様相にこそ光が当てられなければならない)。したがって、ドゥルーズが引いている、グレートゥイゼンの「あらゆる<出来事>は、いわば何も起こらない時間の中にある」(ドゥルーズ 1990=2007:324)という言葉が言うように、何かが起きる時間よりもむしろ何も起こらない時間の方が重要なのである。長く準備された、起きるか起きないか分からない出来事(起きた場合にはシンクロする大爆発としての出来事)からすれば、起きてしまったものは、起きずに長い間過ぎていく時間の中でのある種の成熟に比べれば、たいしたものではないのである。
世界で何人の人に読まれるか分からないような、世界が変わることを願う思索の文章を書いて死んでいく人びと(大思想家から全くの素人の文章家まで)の営みは、いつ起きるか分からない、この爆発への、気の遠くなるような長い射程の中での後押しの一つなのだろう。