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  映像研究

飛び去った、または、消え去った、あるいは、ドミノ倒しの

 
・時間が過ぎる。あっとか言っていると軽く10日以上の時間が過ぎていた備忘録。労働と労働の合間の考察について。労働の業務から考える事柄について。精神的に健康であることについて。その貴重さについて。誰もが誰か考えるのは、子ども(特に男子)はなぜつねに移動が「全力疾走」なのかということで、そして大人はあまり全力疾走はしない。たとえ何かの問題に追われている時でも、それは全力疾走することで解決されるような種類の問題ではないので、ゆっくり歩きつつ「さて、どうしよう」と考えていたりする。そしてそのことは子どもだった頃には全く想像もできないことだった。一年に一度も全力疾走しないことがあり得るなんて。


・東京に雪が降る。23日の夜から24日の未明にかけて相当に雪が降った。雪を見て嬉しいとか嬉しくないとかはそれはまた「全力疾走的な問題」とはちょっと違った事柄だと思う。雪は嬉しい。夜に雪の降る中を歩いていると、街灯の光が地面に雪の影を映す。そういう現象はありそうであまりない。だけれども今、雪を恐いとも思う。雪を恐いと思わざるを得ない2012年の東京。あるいは東京よりも北の地域に降り積もる雪の、その影のきれいさや、近づいてみた時の面白さ、そしてそのきれいで面白い物とまったく同じ物を恐れる気持ちを想像する。手を伸ばすことを躊躇することを想像する。何だ、これは。


・月曜日から土曜日まで。ある程度には規則正しく就業して帰宅する。業務が昼からの日にはまとめて洗濯をする。あるいは行き帰りの電車の中で本を読む。「うかたま」の発酵食品特集を読んで挑戦してみたピクルスを食べたりしている(段々漬かってくる)。日曜日は出かける。大学の卒業制作展を観に行くのがこの季節の恒例。先々週は横浜へ行き(「脱原発世界会議」も含めて)、先週は鷹の台へ行き、そして今週は上野に行くかもしれない。「作品」と呼ばれる、物や、映像や、行為や、それらを合わせたような事や、色々を見る。そこから考えることは多い。


ipodが真っ白になった。電源は入るのだけれども「ミュージックがありません」「ビデオがありません」「写真がありません」と表示する。「ありません、ということはないだろう、お前」と思ってデータを見ると60Gほどデータがあるのだけれども、そのデータはミュージックでもビデオでも写真でもない、と言い張っている。それは例えば「温泉施設の体重計で体重とともに体脂肪などを測ってみたところ、体脂肪、骨、筋肉、などすべてにおいて『少ない』と書いていたので、ではこのからだの『それ以外』はいったい何なのだろう?と思って、ふとからだの内側が主に『豆腐』のようなもので構成されていることを想像した、ということ」と似ているかもしれない。いや、似ていないかもしれない。


・似ていても似ていなくても、多分もうipodは音楽のことも映像のことも思い出さないだろう。悲しいけれども。imacも去年の晩秋に別の理由ですっきりとしてしまった。音楽が聴けない。アーカイヴが失われる。いつでもどこでも聴けると思っていた音楽は、もしかするともう二度と聴けないかもしれない。JANISに行けば済むかもしれない。しかし音楽も映像も飛び去った、または、消え去っってしまったことを思う。そしてまた覚える時には新しいものとして、初めてのものとして覚える。コンピュータのメモリの、そのような特性をふと面白いと思い、そしてもちろんそれとは全然違う、人間の特性についても面白いと思う。


・主に90年代のJ-POPのが恐ろしい程にメモリされている私。ジュークボックスのような人、と言えば、「その、ジュークなんとかって何ですか?」とティーンに訊ねられるかもしれない。クラウド・コンピューティングの人。あるいはその端末としてのipodのような人。人間はデータでも端末でもない。何にも接続されていない。だから時々勝手に歌う。あらゆる場所で。それぞれの言葉で。