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  映像研究

ものかたりと気持ちの一例

 
・すっかり乾燥した晴れた冬の日に、部屋にこもって冬休みの宿題のような作業をしている。宿題をやらなければいけない、という状況で、状況でこそ、部屋を片付ける、部屋を片付けたくなってしまうような気持ちになることがあるけれども、幸か不幸か部屋は断然・超きれい。11月に早めの大掃除を済ませて以来超きれい。基本的に掃除をする必要など全くないのだけれども、それでも手持ち無沙汰で(宿題以外)台所のマットを洗濯したりとか、遅れて届いた年賀状に更に遅れて返事を書いたりしている。お湯を沸かそうと思ってコンロにかけたやかんを空焚きして穴を開けてしまった。それで。



・それで、去年の3月以来、初めてのような、久しぶりのような(久しぶりだとしても覚えていない/10ヶ月は意外に長い/長いというか色々な事が起こる)センチメンタルな気持ちになってみている。憤るとか悲しいとかとは少し違った気持ちとしてのセンチメンタル。「有限。」と思う。あるいはいつかもそう、そのように「有限…。」と思ったのかもしれなかった(忘れた)。限りある、ということについて考える。主に時間から考える。あるいは肉体から考える。そうすればあまりにも「有限。」と思う。



・誰もが誰か「良い」と言うからには本当に良いのだろうなぁと思いつつも、そんなに良いのならばわざわざ聴いてみなくとも良いような気がしていた坂本慎太郎という人の『幻とのつきあい方』の中の『君はそう決めた(You Just Decided)』をyouのtubeで聴いてみたならば、ちょっと驚くほど本当に良くてますますセンチメンタルな気持ちになる。良い感じに楽器が鳴って、良い感じの言葉が歌に乗る。アニメーションも良い。猿と羊と女の子が可愛い。思わず部屋でひとりで踊りだしてしまうような音楽(と映像)だった。そしてなぜだかそのような音楽(と映像)を聴いたり見たりしても「有限…。」と考えている。そしてそれはこれから以降に起こるであろう/かもしれない出来事についてだけでなく、これまでに起こった出来事についても「有限だった。」と思う。あるいは「偶然だった。」とも思う。そのことはしかし悪くない。



・「気持ちについて書くことは難しい」という気持ちについていつか(確か年末に)備忘録した。今そのことを思い出すのならば「気持ち」について。自分は普段ぼやっとしているときに「今、あの人に会って、かくかくしかじかのようなことを言われたら、自分はぽろっと、あるいはざざっと、もしかするとずるずるっと、涙を流してしまうのではないか」と考えたりしていることがある。あるいは同様のルール(?)で「今、あの人に会って、こうこうこのようなことを言われたら、自分は完全に怒りに身を任せて、窓ガラスが壊れるほど叫んでみたりするのも悪くないかもしれない」と考えたりしていることもある。そのことは余りにも普通だけれども、普通にもしかすると凄いことで、普通にちょっと良いような気もする。「気持ち」について。