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  映像研究

文章について、文章を書く練習について

 
・東京に雪が降る。東京に雪が降るとニュースになる。東京に雪が降るとたいていすぐ溶けてしまうけれども、今年は寒いからか溶け残った雪が固く凍って舗道に山になっていたりする。例えば冬のあいだずっと雪が降るような土地ならば、その上にどんどん雪が降り積もるのだろうと思う。溶ける間もなくどんどん降り積もるのだろうと思う。今年の東京はどうだろう。凍った雪が残っている間に次の雪が降るかどうか。想像する。


・この期間文章を書いていたから、それが終わると文章を書くことについて思い出していた。大学に通っているとレポートを書くことになるから「いつまでに○○字以内で」という条件で文章を書くことになって、それは書いているときはハードだけれどもちょっと良い。例えば中学生とか高校生のときに文集の作文を書くために連日唸りながら書いては消し、書いては消しを繰り返したりしたことも、今となってはちょっと良い。ある基準のもとに文章を書いている。文章を書きながらその基準が更新されていくことも面白い。そしてそういう基準がある上で何かすることは大体面白いのだと思う。


・それは人によっては、絵を描くことだったり、音楽を演奏することだったり、料理を作ることだったり、着る服を選ぶことだったり、ボールを扱うことだったり、空間を作ることだったり、本を選ぶことだったり、言葉を話すことだったり、何かを綺麗に掃除することだったり、踊ることだったり、歌うことだったり、器を作ることだったり、する。そういうことの中に「よりよくする」「もっとよくする」「工夫する」部分がある。そしてそういう他のことと同じように「文章を書くこと」もあるのだったら良いなと思う。


・小学生のときには小説を書いた。本のようになっている日記帳を買ってきて、そこに「おはなし」を書いた。内容は漫画の登場人物が自分や友だちになったようなもので、毎日家で10ページとか書いて次の日に学校で友だちに見せて「もっと出してよ」とか言われるとその注文も織り込みつつ続きを書く。仲が悪くなった友だちとかは適当な理由で登場しなくなる(子供だからそこらへん逆にとてもシビア)。「おはなし」というものを自分でも作れるという発想が新鮮だったのだと思う。そういう遊びを小学校の3年生から5年生くらいまでしていたことを思い出した。


・中学生や高校生のときには日記を書いた。無印良品のノートを買ってきて、月に一冊、毎日見開き1ページというルールを決めて、何かを書いた。小さい文字を書くのが苦手なので罫線とかは意識せずわりとメモ的に書いた。例えばその時良いと思っていた音楽について書いたりしていたけど、半分眠りながら書いているのと、どうしようもなく10代の人が書いている感じの文章だから、一度も読み返していない。5年くらい書いた。そしてその経験から知ったことは、言葉はコミュニケーションの道具ではないということだ。誰にも、自分にも理解できないような言葉を、記すことができる。


・大学に入るために通った予備校では小論文を書いた。毎週一枚、受験の直前には週に数枚、というようなペースで書いた。そしてその一年の間に「ある条件の下に文章を書くときの自分の方法」ができた。その方法は、まずはじめに思いつくままに「書きたいこと」を書き出す。そうするとその中に文章のサビのような一文が出てくるから、その一文を目印の旗のように原稿用紙の後半部分に立てる。そしてその旗に向けてどういう線が描けるか、考えながらブロックのようなものを作っていく。うまくまとまると「何かがぎっしり詰まったような」質感のある文章になる。その作業を「ポップ・ミュージックを作るのってちょっと似てるかもしれない」と思っていた。


・大学に入って作品のためのコンセプトを書いた。実体のある、見える作品について、それを作る前に、その物の構想を文章にする。あるいはそれができ上がった後に、その物がどういうものなのかを説明するための文章を書く。その二つは似ているけれども少し違う。そして結果的にはその二つが混ざりあったような文章が、作品の横にキャプションとして貼られていたりする。その作業を通じて言葉と物の関係を(ぼやっと)考え、そして変化する過程を言葉で追いかけることについて(ぼやっと)考えたりした。そして文章には色々なスタイルがあって、それはその文章を書く人や、その人が作った物と、複雑な、ほとんど神秘的と言っても良いような、特別な関係を持っていることも知った。


・ある時インターネットに文章を書いた。誰に頼まれたのでもなく書いた。そういう意味でそれは「日記」に似ているけれども(実際に「日記」「ダイアリー」と呼ばれるけれども)それはインターネットに接続している人なら誰でもが読むことができるという意味で「日記」ではない。それは匿名だった。それは「広告」に似ていた。言葉にはリンクが貼られた。例えば全然支持していない政治家の名前を書いても、その政治家を紹介するページに読む人を導く可能性があるということが本当に(いまだに)不思議なことだと思う。「日記」に似ているところもある。自分が書いた文章が自分のその先のあり方に影響する。そしてまったく断片的なものが、同時に線、流れのようなものになるということを、いつも感じている。それは生きていることにも少し似ている。


・今年は論文を書くことになる。2013年を通して書くことになる。結論がある程度定められているという意味でそれは「小論文」に似ているけれども、単純にかなり長いので「『小』論文」ではない。あるいは自分が今考えたり思ったりしていることを何か見える(読める)かたちにしたいという意味でそれは「作品」に似ているけれども、そしてそれをそう捉えても良いのかもしれないけれども「作品」と「論文」はやっぱり少し違う。違う種類の「普遍性」を持つ可能性があるのだと思う。そして論文は文章だから「流れ」があるのだと思う。断片を構成して流れを作らなくてはいけない。そういう書き方についての自分にとっての基準のようなものは、そういえばまだない。


・そして文章は誰でも書ける、といつも思う。