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  映像研究

ものをかたる

 
・創作という意味での、お話をつくるという意味での、エンターテイメントという意味での、スペクタクルという意味での、いわゆる「物語」という形式にこれまであまり興味が無かったのだけれども、むしろ積極的に興味を持たないようにしていたのだけれども、しかし最近考えているのは「ものをかたる」ということ。ドキュメント、それもインタビュー、あるいは聞き取り。「ある出来事について思うことを話す」こと、そしてその話を聞くこと。話している人の様子を見ること。そういう意味での「ものかたり」に興味がある。



・20世紀の芸術が物体から状況へ、絵画や彫刻から時間や空間へ、広がった結果、あらゆる、あらゆる色々な、例えば「作品を制作するプロセス」が芸術となり、例えば「作品の背景としての『思考』」が芸術となり、例えば「芸術家である人の24時間すべて」が芸術になる。その中で誰もが誰か15分間有名人になる(A・W)ことを待ち続けるのかどうなのか。そしてそのことと「ポスト・フォーディズム」というような、あらゆる人の24時間が労働の時間となるような、交換の対象となるような社会の状況とは、どのように関係しているのか。



・物体から空間へ、空間から状況へ、状況からプロセスへ、溶けるように、流れ出すように広がる「芸術」は、あえて名指すのならば「権力」というようなものの支配の形式と対応しているように思うのだけれども、どうだろう? あるいはそれが「資本」と呼ばれるものの運動の表れのひとつなのか、どうなのか。そしてその形式や運動を自称・逆手に取った上で、音楽が鳴り続けていれば踊り続けることが自明のことであるように、自分のすべてをネットワークに明け渡す人がいる。もちろん自分もそれとは無関係でないからこそ、このようなことを考えるのだとして。



・ある時期に思いつきで(すべては思いつきだから)「What's yours is mine, and what's mine is my own」と言ってみた。言ってみて、そしてその占有の論理(論理でもない)を、しかしすべての人が「あなたの物は私の物、そして私の物は私の物」と言った時には、それはもしかすると「共有の論理」に反転するのではないか? と考えてみたことがあったのだけれども、ネットワークにおける「共有」とは、今、どういうことになっているのだろう?



・自分の24時間をブロードキャストするために映像を用いる人がいる。街に監視カメラが増えることを(少し不安に思いつつ)気にしながらも、一方では誰もが自分をネットワークに接続するためのカメラを家の中に持ち込み、そして日々携帯していることについて考える。それは「労働」ではないのか? と考える。なぜ「労働」ではいけないのだろうか? とも考える。いけないということでもないのだけれども。しかし必要のない物を売ることで利益を上げようとする企業は、ぼんやりとネットワークに接続しているような人を対象とするのだろう。もちろん自分もそれとは無関係でないからこそ、このようなことを考えるのだとして。



・回り道をしながら(これからも全然回り道をする/それは自分にとっての最短距離であるような回り道)「ものをかたる」ことについて再び考える。ネットワークとしての映像と、その局所的な表現としてのスペクタクルとは別の表現について考えた。誰もがカメラを持っている。しかし誰もが自分自身をブロードキャストするのではない。誰もが隣の人に話しかけるだろう。友達や恋人や家族に話しかける。話しかけて会話することの中の、その言葉や表情のほんのひとつかみが記録されるかもしれない。その記録を自分のために持つ。そして必要な場合に限り、必要な人に分ける。



・すぐに表現をしない、とある音楽家が言ったことを忘れない。右から左へ言葉を運ばない。いや、運んでも運ばなくてもどちらでも良いし、少なくともついつい自分は運んでしまうだろう。ときにはそれが必要でもあるのだし。しかし「運ばない言葉」がある。「運べない言葉」はある。文字を恐れていた人々のことを知り、映像を恐れていた人々についても学びたい。色々な考えのヒントは、きっかけは「ものをかたる」ことにあると考える。その地点から生まれる行為と制作物(行為の結果として)に興味がある。2012年のはじめの備忘録として。