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  映像研究

映像を見なくなった

・202101101638。デスクで。作業を中断して今。1月と2月だけは「(土)日が休み」というスケジュールになるが、日曜日の午後の感じに慣れない。そして慣れないが懐かしい。中学生や高校生だった頃はTOKYO FMを午後いっぱい聴きながらぼんやり宿題のようなことをしていたのではないか。山下達郎中村正人田島貴男松任谷由実の声とリビングの笑点サウンドがオーバーラップしたら終わり。そうした時空間がはるか昔のようにも昨日のようにも思えるといえば大袈裟だけれども確かにそうした過去と今が「日曜日の午後であることにおいて」完璧に接続されるような感じがある。そう考えれば、平常の日曜日は業務が入っていてくれて良いのかもしれない。毎週日曜日ごとにこのような感慨が襲ってきたら疲れる。あるいは飽きる。

 

・今日は久しぶりに少し作業ができた。引き続き「写真の新使命」という文章を読んでいるが、全九回までの一から三までを何度も読んでいる。読むたびに読めていない部分に気がつき進まない。いつになれば書くことに移行できるのか。「生命の旋律」とは少し何か抵抗のある言葉だが、当時からすれば普通の表現なのか。

 

それは趣味性が実に潜在的に自然の支配の下に置かれて居ながら、それ自身としては、人間に指導となるべき少しの暗示的の意志すら明かに表して居ないからである。であるから生命の旋律から次第に遠ざかり人為的に生み出された文化によって幻想の中に入り、総てその真面目を失って終わったのである。かくして趣味性は個人的なものとなり、芸術の一般的妥当性と相容れない狭いものとなり終わったものである。

 

松の内を過ぎれば、毎年小西康陽の映画鑑賞リストのことを思い出す。思い出して検索して読んだならば冒頭の文章で2020年の特殊な状況と映画館のことを思い出した。それでも500本弱の映画を映画館で見ているのだなと思い、これも毎年のことだけれども、生きている時間のどれほどの時間を映画館で過ごしているのだろうかと計算してしまう。暗闇の中でフィルムに焼き付けられた過去のイメージを見る時間と自分の生きている時間を、同じ「時間」と呼びはするが、どのように考えれば良いのだろうか。自分が生きる上で必要だと考える人はそうする、というだけのことなのだろう。何か想像しきれない感じが残る。

 

www.memorandom.tokyo

 

・自分は2020年は映画を全く見なかった。「見なくなった」とも言える。ニュースといくつかのテレビのドキュメンタリーや情報番組が部屋で流れていれば充分。またはラジオ。あるいは時おり画面を介して友人と話す。情報あるいは雑談を聴いても良いし聴かなくても良いというくらいが、現実の場所とそれ以外の時空間との適切な距離だと感じている。映画も、美術も、いずれにせよ動く映像を積極的に見ていない。しばらくは見なくてよいと思っている。いつかまた映像作品を積極的に見ようという気持ちは起きるのか。そしてそれはどのような映像なのか。

  

・映像のことはさておき、小西康陽という人の作った音楽を聴いた2020年だった。ピチカート・ワン『前夜』は、夏にCDで買って、サインに名前を入れて貰ったことに普通に気持ちが上がり、部屋で、車で、昼に、夜中に、暑い夏のあいだ、ずっと聴いていた。その声の感じを聴いていることは好ましい。ビートのない音楽の許されている感じ。この数年は一年に一度くらい会えれば、という感じの友人が確かTwitterにこのアルバムのことを書いていて、やっぱり、そうだよね、と嬉しい気持ちになったことも覚えている。2021年にはどのような音楽を聴くことになるのか。どのような音楽であれば、好ましいと思えるのか。

 

・引き続き蜂蜜のことが気になっている。作業の合間に前田京子『ひとさじのはちみつ』という本を一気読みし、蜂蜜の薬としての効能にいちいち驚く。注文していた荻窪のラベイユというお店の「香川のびわはちみつ」が届いてそれを舐めながら作業。養生と作業のバランスを探る日曜日。

 

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